「……なんだったのかな、あれ」 「さあ」 それから、少し経った。 私は短い時間、気を失ってしまっていたらしい。気がついたら、ナランチャが倒れる私を心配そうに覗き込んでいたし、矢も、首にあるはずの傷も、どこにもなかった。 小さな鍵と、鍵のかかった箱と、私達二人だけが、誰もいない教会の裏に、静かにいた。 「ま、とりあえず。無事で良かったぜェ――。オレも、ナマエも」 「……そうだね」 ナランチャは、私が無事だと知ると、安心したように座り込んだ。私もその隣に座り、まじまじと彼の顔を見る。 私も彼も、首筋に矢を刺されたのだし、かなり出血していのだから、死んでもおかしくなかったはずだ。それに、矢の行方も気になったけれど。 まあ、いいか。自然とそう思った。 それよりも。今は、ナランチャの近くに飛び回っている、小さな飛行機のことが気になった。 「なあナマエ、聞いてくれよ。これさ、なんて言うのかな?」 ナランチャもそれが気になったようで、私にそれを聞く。どうやらそれは、ナランチャの意思で動き回せるものらしい。 彼はあのときこれを使って、私に刺さった矢を攻撃して、私を守ろうとしてくれていたようだ。 「さあ……。あなたの力なんでしょ? あなたが名付ければいいんじゃない」 「そっかー。うーん……じゃあ、聞いてくれよ。これは、『エアロスミス』だ! どうだ、カッケイーだろ?」 「うん、とても。……かっこよかったよ、ナランチャ」 そうやって微笑むと、ナランチャも照れくさそうに笑ってくれた。 どうして、彼に急にこんな力が出てくるようになったのか。あの、自動的に動く矢は、一体なんだったのか。 気になることは、たくさんある。だが、今はそんなこと、どうでも良かった。 今の私達にとって重要なことは――私たち二人がこうして生き延びたこと、それだけなのだから。 私と彼は、少しの間沈黙していた。その後に、私は、意を決して口を開く。 私にとってのナランチャは、既に赤の他人ではない。一緒に死の危険から逃れた、仲間だ。 たとえそれが、今日限りのものだったとしても。私にとっての彼は、大切な人で、感謝したい人であった。 「ねえナランチャ、聞いてくれる?」 だから私は、静かに語り出した。ナランチャに、私の話を聞いてほしかったのだ。 それは、秘密主義が求められる『組織』の一員としては良くない行為だったかもしれないけど、構わなかった。私にとってナランチャは既に、信頼できるひとりの男の子だったから。 「私ね、ずっとひとりだった。殴ってくる大人しかいない息苦しい孤児院から抜け出して、万引きしたりしながら生きてたの。けどそんなとき、あの孤児院の大人と再会して、揉めに揉めて……人を、殺しちゃって。それから私は、どんどん戻れなくなっていった。肥溜めみたいな世界で生きるために、どんどん魂が死んでいく気がした……」 ナランチャは、私の話を黙って聞いている。その表情からは、彼の感情は読み取れなかった。 だけど。それでも彼が、私の話を重く受け止めて聞いてくれていることだけは、はっきりと伝わってきた。 「そんな私を、救ってくれた人がいたんだ。だから今、私はここにいる。たとえ、普通の世界には戻れなくても。最悪の一歩手前の、それでも人間らしく生きる、衣食住を保証される、ある程度の身を守ることを保証される――そんな世界に入るために」 表世界ではやり直せなくても、この世界なら、まだやり直せるかもしれない。 私を助けてくれた、ブチャラティと名乗る男は、できれば私のような子供はこの世界に引き入れたくはなかったようだ。それでも、これ以外どうしようもなかった私に、彼はこの世界のことを教えてくれた。 もちろん、ブチャラティには感謝している。けど、私が今伝えたいことは、ナランチャに伝えたい事は、別のことだ。 「けど、こんな私を守ってくれたのは、守ろうとしてくれたのは――ナランチャが初めてだったんだ」 こうやって、命の危険に直接晒されたとき。私は、いつも一人だった。私に降りかかる暴力に対抗してくれる人なんて、いなかった。 だから、私は嬉しかった。ナランチャが、私に刺さる矢を必死で攻撃してくれたことが。 彼がこうやって守ってくれようとしたこと自体が、私にとっての光として、心に刻み込まれたのだ。 「だから、ありがとう。私達が無事に『組織』に入れるかは、まだわからないけど。でも、これだけは言いたかったの」 そして、私はもう一度、彼に笑いかける。私の言葉を聞いて、少々頬を赤くしているナランチャの姿に、感謝と憧憬と、ちょっぴりだけ愛おしさを感じた。 それから、短い沈黙の後。彼は小さく、言葉を零した。 「……なあ、ナマエ。もしオレがひとりだったら、オレはもしかしたら、あの矢に刺されて死んでいたかもしれない」 「? どういうこと?」 ナランチャのその言葉に、私は首をかしげる。すると彼は、ぽつりぽつりと、自分の感情を吐露してくれた。 「あの時オレ。意識がなくなりかけてたんだけどさ。ナマエがやられそうになっているのを見た時、このままじゃいけないって思った。勇気がわいてきたんだ――この子を死なせるわけにはいかないって。最初にあの箱の中身を見ようって言ったのは、オレの方だから。オレが、箱の中身を見ようと言ったから、君のことを危険な目に遭わせちまって」 「そんな」 彼には自分を責めてほしくなかった。私は、ナランチャは悪くないと思っている。 あの箱の中を見るか否かの二択しかない、あの状況下で、どちらが正解でどちらが不正解なのかを決めるのは、運でしかなかった。実際、どちらも正しい判断であったと思う。 あの『入団試験』は、毎回答えが変わるのだろう。なんとなく、そんな予感があった。 「ナマエ、守りきれなくて、ごめん。だけど――オレのほうこそ、ありがとうな! 君がいてくれて、本当に良かったよ。君がいたから、オレもナマエも二人で生き残れたって、そう思うんだ」 私がいたから、彼は力に目覚めたのだと。死にかけた意識を戻して立ち上がったのだと、そう言っている。 だけど。……もしナランチャがひとりだったとしても、彼はひとりで、りっぱに立ち向かえたんじゃないかとは思う。 それでも。彼がこう言ってくれるのは、私にとって、とても嬉しいことだった。 「オレももう、ひとりじゃあないのかもな」 そうやってはにかむ彼の瞳が、眩しい。 私達は、もうひとりではないのだと。私たちは二人で立ち向かえたのだと――そう感じた。 それから私たちは、少しだけ話をした。 二人寄り添って座っていると、周りの世界の人たちが目に入らなくなる。まるで、この世界には自分たちしかいないように。 ナランチャがこの場にいる経緯――母親の死。無関心な父親。非行少年の友達。信じた人からの裏切り。浮浪児になったこと。手を差し伸べてくれた人。その人が彼のことを想って怒ってくれたこと。その人の元で働きたくて、その人に内緒で、こうしてここに来たこと――そう。彼も、私に自分の過去を話してくれた。 ナランチャも、私に心を許してくれたのだろうか。こうして一緒に危機を乗り越えた、私のことを。 「……私たち、もう、ひとりなんかじゃないんだね」 「そう、だな。きっと、そうなんだよな」 私たちは、ずっとひとりぼっちだった。でも今は、少なくとも今だけは、ひとりなんかじゃない。 救いの手を差し伸べてくれた人。信頼できる、こうして危機を乗り越えた仲間―― 私達が、無事に明日の未来を歩めるか、それはまだわからない。でもこの一時は、ナランチャと過ごすひとときは、とても穏やかで、全てを忘れられそうなほどの時間であった。 「じゃあ、行くか」 「そう、だね」 それから、私たちは別れを告げる。 入団試験の答えは、箱の中身を見ずに、ポルポにそれを返すことなのだろう。それなら、私たちがこれ以上一緒にいる意味は、既にない。 「……オレたち、また会えるかな?」 ナランチャが、少し寂しそうに呟く、だから私は、その問いに肯定で返した。 「うん、きっと。私たちが組織に入ったら、また会えるよ。同じチームにはならないだろうけど……一緒の街に住んでるんだからさ」 「そっか。うん、そうだよな」 私の言葉を聞いて、ナランチャは顔を輝かせた。その笑顔を眩しいと感じると共に、彼にしばらく会えなくなるかもしれない事実に、私も少し、寂しさを覚えた。 「じゃあまたな、ナマエ!」 「……うん! きっとまた会おうね、ナランチャ!」 そして私たちは、二人で並んで、明日を夢見た。 それから、私たちは違う道を進んでいったけど――きっと、また会える。今度は、新しい人生を歩んだ先で。 そう信じながら、私は歩みを進めた。彼の輝きを、この思い出を、胸に刻みつけながら。 次の日、昨日と同じ時刻に。 私達は予定通り、ポルポに順番に面会に行った。 もちろん、「お互いが組織から預かったものは一切見せ合っていない」、要するに「箱の鍵は開けていないし、中身は見ていない」という口裏合わせをした上で、だ。 箱の中身の矢に射られてから、私達の身に不思議な力が宿ったことをポルポに報告すべきかは、最初は悩んだ。だが、きっとあの矢は、本来人を殺す道具なのだろう。そして、箱の中身を見たものへの罰ではないかと思ったので、何も言わないことにした。 私たちは、たまたま矢に射られても死なずに不思議な力を身に着けたが、本当はあそこで死んでいたかもしれない。なら、そのことをポルポに言うべきではない。 それに。この件について何も言わないことは、『組織』内で生きていく秘密主義にも繋がるだろう。そうも思ったから。 「フゥム……ナマエとか言ったかね。君は」 「……はい」 「ちゃァーんと、分かっていたようだね。『組織から物を預かるという意味』を。ああ、この箱の中身は聞かないでくれよ。企業秘密だからね。……最も君は、『本当は中身を知っているのかもしれない』が……」 「……」 何を言っているかわかりません、と素知らぬ顔で私はポルポの顔を見上げる。この巨漢は、首が痛くなるほど背も高い。少し、私と彼の間に、沈黙が訪れた。 その後、ポルポはゆっくりと口を開いた。 「『合格』だ。このバッジを君に渡そう。これからは、ブチャラティの指示に従って動くといい」 ほ、と気が緩んだ。 合格だ。これで、私の、新しい人生に繋がる。私は――この世界で、やり直せる。 それにこれは、私に救いの手を差し伸べてくれた、ブチャラティに報いることにもなるのだ。 「ありがとうございます」 バッジを受け取って、ポルポの声も聞かずに、早々に外に出た。これが新しい始まりの一歩だと、そう実感しながら。 爽やかな風が、私の頬をそっと撫でた。 そういえば、ナランチャの結果はどうだったのだろう。刑務所の外に出て、歩きながら物思いにふける。 私とナランチャのポルポとの面会は別だから、彼の合否を私が知ることはできない。それに、仮に彼も合格していたとしても、私たちは別のチームに入るだろう。 だが、それでも。彼が組織に合格したのなら、また会うこともあるかもしれない。そんな未来に、ちょっぴり期待する。 だが、そうでなかったとしたら。彼とは二度と、会うこともないのかもしれない。もしあの場で彼が失言していたら、彼は不合格になってしまうかもしれない。 そんな恐れを抱きつつも、しかし、私にできることは既に何もなかった。 「……また、会えるといいな」 そうやって、小さく息を吐く。 それから、ブチャラティの元に向かおうと、歩みを進めた。 ブチャラティから「ポルポの入団試験を終えたらこの場に来い」と言われた、リストランテに向けて。 そこで――私の新しい人生が、ここから始まるのだ。 私は、緊張していた。 ブチャラティに指定されたリストランテのドアの前で、まずはひとつ、深呼吸する。 それからそっと、リストランテの扉を開けて覗き込んだ。中から何やら話し声がして、思っていた以上に騒がしかったので、少し様子を見ようと思ったからだ。 そして。想像もしていなかった会話が、耳に飛び込んできた。 「なッ……!? おまえは、ナランチャ・ギルガッ!」 「ブチャラティさん! オレ、やっぱりあんたの元で働きたいんだ! だから、ポルポに会いに行って……お願いですブチャラティ! オレを、あんたのところで働かせてください! ほら、合格したときのバッジも、もう持ってるんだぜッ!」 ――えっ? ナランチャ。ブチャラティ。この会話の内容は一体―― 慌てて、リストランテの中に入る。彼らは会話に気を取られて私には気が付かなかったようだが、そこにいたのは確かに、私の知っている人たちだった。 ナランチャは言っていた。ある人の元でどうしても働きたかったから、あの入団試験を受けたのだと。 そのある人が、まさか。……ブチャラティだったとしたら? 頭の中で、全てが繋がった。そして、これから私が進むべき道を照らす光も。 「……また、会えた」 それだけじゃない。これからも、ナランチャと同じチームで――私たちは一緒に、新しい人生を始めるのだ。 「チャオ、ブチャラティ! 私も今日、ポルポに会ってきて、合格してきたわ!」 私はそのテーブルに近づいて、私に救いの手を差し伸べた恩人に向かって言う。そこでテーブルにいた彼らは、ようやく私に気がついたようだった。 「あ、ああナマエ。よく、やったな……」 ブチャラティは、私がこの場に来ることは予想していただろうが、ナランチャが来ることは予想外だったようだ。頭を悩ませた様子で、気圧されたように息を吐く。 そこで、ナランチャはようやく私に気がついたらしい。驚いたように、勢いよくこちらを見た。 「なっ、ナマエッ!?」 「チャオ、ナランチャ! 実は私も、このチームに入ることになったの!」 ナランチャは目を丸くしてこちらを見ている。だけど、すぐに表情を緩めて、嬉しそうに顔を綻ばせた。 「観念したらどうです。ナランチャも、この少女も、心からあんたのところで働きたいと思っているんだ。もちろん、このぼくもそうですけどね」 私とナランチャが再会に盛り上がっているときに、もうひとりの少年がそっとブチャラティに耳打ちする。 はあ、とため息をついたブチャラティは、やがて、軽く笑った。 「全く……騒がしくなりそうだ」 そして、私達四人での、ギャング生活が始まろうとしていた。 これが、私達の新しいはじまりの日。新しい人生の、はじまりの日だ。 この世界は、綺麗なだけの世界ではない。むしろ、暗いことのほうが多いのかもしれない。 「また、会えたね。これからよろしくね、ナランチャ!」 「ああ! オレも君も、一緒に頑張れるといいな、ナマエ」 だけど。ナランチャがいてくれるなら、もしかしたら。彼と一緒なら、明るい道が開けることもあるのかもしれない。 私は運命に、そう願った。
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