「ブランドー」 その女に初めてそう呼ばれたとき、騎手の男は面食らい、同時に顔を顰めた。 SBRレースの協力者となり、それなりに長い付き合いだった女にそう呼ばれることは、今まで一度もなかったからだ。彼女はいつも、男のことをこう呼んでいた――『Dio』と。 「君にそう呼ばれるのは初めてだな。どういう風の吹き回しだ?」 怪訝そうな顔をしている男の問いに、女は意外そうに目を見開いた。そして、肩をすくめてみせる。 「別に、大した意味があるわけじゃあないわ。ただ、呼んでみただけ。怒るかなって思ったの」 「怒らせたかったのか? ……怒ると思っていたのか? 何故だ?」 男は心外だ、と言わんばかりに腕を広げた。姓で呼ばれたくらいで、怒る理由などない。女の言っていることが理解できず、男は眉を顰める。 「なんだか、すごく怒られそうな気がしたの。あなた、父親のことが嫌いなんでしょう? だからよ」 女の言葉に、復讐しようと決意している父親のことが思い出され、男は苦い顔をした。だが同時に、彼女が言わんとしていることに気づく。 「……ああ、そういうことか。だが、君の考えは的外れと言わざるをえないな」 「どうして?」 「ブランドーという姓は、オレの父親のものじゃあない……母親が名乗ったものだ。誇りを感じることはあれど、その名で呼ばれたことくらいで怒ったりはしない」 男は、そこで少し表情を緩めた。母の朧げな記憶を回顧し、彼は息を吐く。 それと同時に、彼はどこか郷愁のようなものを感じていた。母親が名乗った名だから、という理由だけではない。何故か、ナマエ・ミョウジに『ブランドー』と呼ばれることに――どこか懐かしい、それでいて因縁めいた『何か』を感じたのだ。 「ふうん、そうなのね」 納得しているのか微妙な素振りで、女は頷いた。そして彼女は目を伏せ、ぽつりと呟く。 「今、あなたのことをブランドーと呼んで、なんとなく思ったのだけれど……。私、あなたのことは『Dio』と呼ぶ方が好きかもしれないわ。短くて言いやすいし、どこか懐かしい気がする。その名前を呼びたくてたまらないような、奇妙な感覚がするの」 「奇遇だな。オレも、君のことはナマエと呼ぶのが一番良いと思っていたところだ……気に入っている」 「あら、あなたもそうだったの」 女はそこで、純粋な笑みを浮かべた。穢れのない、どこまでも透明な笑み。それを確認した男も、また薄く笑った。 「なあ、君は最後まで、このオレの隣に立ってろ……ツートップだ。オレが一位で、君が二位。君にだけ課せられる、唯一無二の役目だ」 「どうせ危なくなったら切り捨てるつもりの癖に?」 女は笑ってこう言った。このような言葉の裏腹に、怒りなどといった感情はない。ただそれには、男に向かっての好意的な感情が込められている。 「でも、いいわ。絶対最後までついていく。絶対に、あなたの隣に居続けるから。私は、あなたの隣に居続けたいの」 女が願いを吐露したのを最後に、沈黙が場を覆った。だが、それは決して重いものではなく、どこか心地よさすら感じるものであった。 しばらく二人は沈黙に浸っていた。永遠のようで、一瞬のようでもある時間。 この静寂の中、男はおもむろに立ち上がった。そして、彼は沈黙を破る。 「……さて、そろそろ時間だ。行くぞ、ナマエ。このステージもオレたちが制覇する」 男はナマエのことを気にかけながら、彼の愛馬に乗った。それを皮切りにナマエも準備を始め、男に声を返す。 「そうね、Dio。急ぎましょう」 そうして、二人は出発した。野望を持つ男の隣には、確かに一人の女の姿があった。 彼らは隣り合って、協力し合ってレースを進んでいく。 二人が手にするのは、栄光か否か。それはまだ誰にもわからない。 ただ、二人は決意していた。自分こそが頂点に立つのだと。あるいは、自分はその隣に立つのだと。 「オレは君を切り捨てたりはしないさ。……できるだけな」 「もう、なにそれ」 二人は、ひたすら進む。 彼の野望のために、あるいは彼女の願いのために―― 二人は進む。 世界が変われば、変わることもある。それでも二人は、ただただ歩み続けた。 たとえ何度世界が変わっても、変わらないことだってあると信じて。
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