1.額縁越しの出会い

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」 「えっ?」 「だからウィンガーディアム・レヴィオーサだよ、浮遊呪文の発音は。レビオサーではない」  あまりに呪文が下手すぎて、夜の談話室で一人で練習していたら、飾られていた肖像画から声をかけられた。何事かと思ったら、黒髪で灰色の目の、かっこいい男の子の肖像画だった。 「……ウィンガーディアム・レヴィオーサ」  男の子の言った通りになるように、ゆっくり発音する。  すると。さっきまではぴくりとも動かなかったハンカチが、少しだけ動いた。 「う、動いた! 動いたよ!」 「浮かせることはできてないじゃないか」 「それでも、ちょっとでも動かせただけで奇跡だよ!」  魔法使いが奇跡なんて言っている時点で変な気がするが、気にしない。肖像画の男の子は頬杖をつきながら、冷めた目で私のことを見ている。 「うーん、ここからさらに飛ばすには、どうしたらいいんだろう」  そして、意味もなく力んでみる。杖をハンカチに向けてみるが、それだけではさっきとあまり変わらなかった  男の子の肖像画は呆れたように、ただこう言った。 「想像力も大事だ。そのハンカチが、ふわっと浮き上がるところを考えてみればいい」 「ふわっ、と……」  難しい。  イメージ。想像力。ハンカチがふわりと、自由に浮き上がるような―― 「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」  自然と、呪文が口に出た。今までで一番の手応え。  ハンカチがふわり、浮き上がった。 「すごい、すごいよ! 肖像画さん、ありがとう!」  そして私はハンカチを浮かせ続ける。ホグワーツに入学して二ヶ月近く経っているのだが、初めてまともに魔法を使えたような気がした。  肖像画の男の子はため息をついた。 「普段、ここの学生に話しかけたりなんかしないんだけどね。君があまりに愚鈍なものだから、見ていられなくなった」  彼の言葉を聞きながら、談話室を見渡す。ここ、スリザリンの談話室にはスリザリン出身の偉大な魔法使いの肖像画がいくつもあるが、この男の子のように若い肖像画はそうそうない。隣で寝ている肖像画の男も中年というよりは老人で、禿頭だ。セイウチみたいな。  そして、私は男の子の肖像画をじっと見る。このホグワーツに入学して、動き喋る肖像画はようやく見慣れてきたところだが。  よく見ると彼は、ホグワーツの学生服を着ていた。当然スリザリン生だろうが、何故こんなにも若い魔法使いが飾られているのだろう?  ……と。集中を切らしたからだろうか、浮いたハンカチがテーブルの上に落ちてきてしまった。魔法が解けた実感に、思わずため息を吐く。 「はあ、魔法ってすごいな。未だに信じられなくなるよ」  そして、しみじみと口にした。すると肖像画の彼は、眉を顰めて言った。 「……君、マグル生まれ?」 「そう。マグル生まれの一年生、ナマエ・ミョウジ! あなたは?」 「君は、魔法史をもう少し勉強してみるといい。由緒正しきブラック家のことも知らない子供に、名乗る名前なんてないよ」  高慢なところのある人だなあ、と思う。肖像画の年代は六年生か、七年生くらいだろうか。  ブラック家、ブラック家ね。どこかで聞いた覚えもあるが。マグル生まれの私はどうも魔法界の常識に疎い。入学したばかりだし。  よし。次に彼に話しかけるまで、ブラック家のことを調べてみよう。そう思った。  そして、三日後のこと。 「レギュラス! 起きて、レギュラス!」 「……別に、眠っていたわけではないんだけどね」  談話室に誰もいなくなった夜に、私は男の子の肖像画――レギュラス・ブラックに話しかける。額縁の向こう側の彼は、気怠そうに目を開いた。 「へえ。君、僕の名前を知ったんだ」 「ブラック家について調べてみたの。代々スリザリンの純血一家、シリウス・ブラックはあのハリー・ポッターの後見人。そしてレギュラス、あなたは……えっと、ヴォルデモートを裏切って死んだ、元死喰い人」 「…………」  魔法界の戦争について、私は詳しく知っているわけではない。十九年前の魔法界の話は、マグル生まれの私にとってはピンとこない、遠い話だ。  とはいえ、ハリー・ポッターとヴォルデモートの戦いについては多少は知っている。ハリー・ポッターの息子、アルバスはスリザリン生で、同級生だ。  魔法史を少しでも勉強した私を認めてくれたのだろうか。レギュラスは、仰々しく名乗ってくれた。 「ならば、改めて名乗ろう。僕はレギュラス・ブラック。その肖像画だ」 「うん。よろしくね!」 「君とよろしくやるつもりはないが、マグル生まれのナマエ・ミョウジ。とはいえ、誰もいないときに話しかけてきたのは良かったよ。大勢に囲まれるのは好きじゃないからね」  私の名前、覚えていてくれたんだ。この間名乗ったばかりだから当然かもしれないが、嬉しくなる。 「……それにしても、マグル生まれ、か」  そんな中。レギュラスはふと、口を開いた。 「僕がホグワーツの学生だった頃は、スリザリンにマグル生まれなんて聞いたことなかったよ。隠し通している人はいたのかもしれないけど」 「そうなの?」  純血主義の問題は根深かったと聞いている。だがそれも十九年前までの話であって、今となってはかなり改善している、らしい。実際私は今のところ、マグル生まれのスリザリン生として、困ったことは特にない。成績は悪いけど。 「少なくとも、僕はそう認識している。僕の認識していることが、『レギュラス・ブラック』にとって真実か否かは定かではないけどね」 「……レギュラスの言ってること、難しいよ」 「無理に理解する必要はない。君が出来損ないだろうと、僕には関係ないことだ」  そう言われても、気になる。レギュラスが学生だったのは、数十年は前の話だとして、彼の言葉の意味はよく分からない。  どういうことなのだろう?  首を傾げていると、レギュラスはため息を吐いてから口を開いた。 「魔法肖像画は、あくまで肖像画なんだ。魔法画家が、絵に魔法をかけただけ。本物の、生前のレギュラス・ブラックの記憶や知識、考えを引き継いでいるわけじゃない。僕はあくまで、『魔法画家のイメージするレギュラス・ブラック』でしかないってことだ」 「あくまで、肖像画……」  マグルの肖像画のことを思い返す。私にとっての、『普通』の肖像画。それはあくまで絵であって、写真とも違う、ただの絵。  偽物の存在。 「レギュラスがそうやって毒舌なのも、『生きていた頃のレギュラス・ブラック』にとっての真実じゃないかもしれない、ってこと?」  本物の、モデルとなったレギュラス・ブラックと、目の前にいるレギュラス・ブラックの肖像画は、実は全然違うのかもしれない。見た目も性格も口調も。  マグルの肖像画だって、本物を忠実に再現できているとは限らないし。  ……そういうことだろうか? 「かもね。『レギュラス・ブラック』はもしかしたら、出来損ないだろうとマグル生まれだろうと、表面上は優しく接したのかもしれない。それとも、『彼』は純血主義なわけだから、虐げるような真似をしたのかもしれない。虚像の僕には、分かりようもないことだ」 「純血主義……」  私が想像しているより、ずっと根深いことなのだろう、この問題は。今のところ私は平穏に暮らせているが、もしかしたら、どこかに綻びがあるのかもしれない。 「でも、あなたはそんなことしないよね? マグル生まれを虐めるだなんて」 「……僕は、肖像画だからね。喋ることしかできない。そしてスリザリン生は一般的に、同胞を歓迎する」  レギュラスの肖像画は済まし顔で言った。  もしかしたら、『本物のレギュラス』は、マグル生まれには厳しくあたったのかもしれない。  だけど目の前の彼は、少なくとも、そのつもりはないようだ。成績が悪くてもマグル生まれでも、私のことをスリザリン生の一人として歓迎してくれるつもりはあるらしい。 「そっか。それならいいよ。よろしくね、レギュラス!」 「だからナマエ・ミョウジ、君とよろしくするつもりはないんだが」  そしてレギュラスは再びため息。それでも私は、その高慢そうな彼に向かって、笑みを浮かべてみせた。  肖像画の彼との物語は、ここから始まる。

prev | back | next