37.bye bye

 ぼんやりしながら、無言で部屋に戻ってくる。  何をすべきか少しだけ考えて、やがて、手紙を見てみようと思い立った。 『記憶を失った私へ』――  ふざけてるのかと言いたくなるような、『記憶を失う前の私』からの置き手紙を。  記憶を失う前の私は、何を考えてこんなものを書いたのだろう。  こんな能力を持っているせいか、自分自身が記憶を失うことを、常々想像し、恐れていたのだろうか。――今となっては、何もわからない。  私はただ、ゆっくりと、二つ折りにされた小さな手紙を開いた。  そこに刻まれていた文章は―― 『今すぐこの家を出ろ』 「――ッ!?」  ただ一文だけの、無情とも言える文字列だった。  背中に冷たいものが流れ出た。  手紙の裏も慌てて見てみたが、何も書かれていない。手紙には結局、それしか書いていなかった。 『今すぐこの家を出ろ』だなんて、これは、どういうこと? 「……はあ」  深呼吸し、少しだけ落ち着いてから、頭の中を整理する。  そうだ。この場所に戻るつもりのなかった『記憶の失う前の私』は、自分の能力を考えてか、私が記憶を失い、この町に戻ってきてしまうことを推測していたのではないか。だからこそ、この家に戻ってくるべきではなかったと、本気で私に忠告してきているのだ。  しかし――引っかかる。  『記憶を失う前の私』が、本気でこの家に戻りたくないと思っていたとは、今の私には思えないのだ。  承太郎の話によると、『記憶を失う前の私』は、自分の両親からの記憶は奪っていないようだった。依頼のことがあった承太郎はともかく、町のほぼすべての知り合いから記憶を奪ったのに、だ。  本気でこの場所に戻ってくる気がないのなら。記憶を失ったとして、この家に戻ってきてほしくないと、本気で考えていたのなら。家の中にある私物や、荷物に入っていた家の鍵、学生証なんかも処分するのが普通ではないだろうか。  この国には、この家には、何かがまだ、残っている。  それが判明するまでは――たとえ「今すぐこの家を出ろ」だなんて言われたって、私はこの家を出るべきではない。たとえ私がイタリアに戻りたいと、心のどこかでは思っていたとしても、それでもだ。  それは、私の信じる道ではない。それだけは、わかっている。  手紙を畳んで、ふと、家の中の景色を眺める。考え込んでいるうち、段々と眠くなってきた。  眠い。飛行機で寝たとはいえ、あまり飛行機の中はあまり寝心地が良いとは言えなかった。  まだ寝るには早い時間だったが、自分のものであろう布団に潜り込んだ。自分の家のはずなのに、どうにも落ち着かない。使われた形跡のない布団に潜るのは、なんだか気味が悪かった。  親が帰ってくる気配は、全く無かった。待っているのも馬鹿らしくなって、私は目を閉じた。  次の日、空腹で目が覚めた。ぼんやりしながら、ここがいつものナランチャの家ではなく、日本の『自宅』であることを思い出す。  疲れていたのか、昨日は早い時間に眠ったはずなのに、既に朝九時頃になっているようだった。これだけ長い時間眠っていたというのに、ナランチャの家と同じようにぐっすり眠れた気はしなかった。 「……」  そして、夢を見ていたことも、頭痛と同時に思い出した。  汗をかいていたので、おそるおそるシャワー室に向かう。置いてあったタオルと着替えは自分のもののように思えなかったので、たまたま持っていたタオルと着替えを使う。しかし、他人の家のシャワーを勝手に浴びているような違和感はぬぐえない。  シャワーを浴びながら思い返していた。イタリアのこと。今日見た、彼らの夢のこと。  未だにはっきりと思い出せる、彼らの顔――  問題なのは、私がこの国で、彼らの夢を見てしまったということだ。  この国で暮らすことを選択したのなら、二度と会えないかもしれない、大切な人たち。  しかしこの国にあるものは、『私』についてほとんど覚えていない町の知人たち。死んだ『親友』との写真。いつまでも帰ってこない『家族』。『記憶を失う前の私』からの「今すぐこの家から出ろ」という、無情な手紙。そんなものしか残っていない。  しかし、それでも――本当に、もしかしたらの話だけど――私は、この国で暮らす道を選ぶかもしれない。  この家にはまだ『何か』が残っている。それが判明するまでは、私はこの家を出ることができない。  ――君の親も心配しているだろう。親とはそういうものだ――  ブチャラティは夢の中で、いつか言った言葉を繰り返していた。  この言葉にすがりたい『何か』が私にもあるのだろうかと――漠然と考えながら。  気がついたら、私はいつの間にかシャワー室から出ていて、髪も乾かしていた。  この家を出るべきか、家族を待ってみるべきか。判断がつかないまま、ぼんやりと思考する。 「はあ」  だが、答えは出ず、うつむいて息を吐くしかなかった。  そして、何か気配を感じ、ふと顔を上げると―― 「――ハッ」  その人は、立っていた。  つんと冷ややかな目をした見覚えのない女性が、そこにいた。  ――いつの間に。  音もせず、ほとんど気配もせず。女性はただ、静かにそこに立っていた。そしてしばらく、感情の読み取れない顔でこちらを見ていた。  ――この人が、私の母親? それとも、泥棒か何か? 「えっと。お、お母さん?」  思わず疑問系になってしまった。本当に彼女は――私の母親なのだろうか?  血の繋がっているはずの彼女が、私と顔が似ているのかは――正直、よくわからない。ただ、私の親だというのにふさわしい年齢であろうことは見て取れる。  ――しかし、私のことを見て、彼女は幽霊でも見たような顔をする。  彼女に何と言葉をかければいいか全くわからなかったが、しかし彼女もしばらく黙っていた。  そして彼女は何も答えず、踵を返した。全く興味を持った感じでもなく、ただ、私のことなんて見えていないかのように。  ――様子がおかしい。  一ヶ月以上帰ってこなかった娘に対し、彼女は――何も言わない。怒りもせず、泣きもしない。もちろん、喜んでいる風でもない。  彼女が何を考えているか、全くわからない―― 「……ッ! 『イン・シンク』!」  私は無意識的に、スタンドで母親のことを殴っていた。半分、殺す覚悟だった。  そうして、彼女が今考えている十の事象が目に入る――  それなのに。  絶対に、彼女が考えていると思っていたことが、少なからずあるはずだったのに―― 「夕飯のこと、仕事のこと、洗濯のこと、昨日読んだ本の内容のこと、今日観たいドラマのこと、空腹のこと――」  ない。  私のことが、『苗字名前』のことが、ひとつもない。  『記憶を失う前の私』は、親の記憶はそのままにしておいたはずだ。なのに、親は私のことを何も考えていない。  これは、これは、これは――  しばらく、呆然としていたが――やがて、ふっと思い立った。  それは『私』にとって、残酷な事実。  なんということだ。彼女は私のことなんて、根本的に全く興味がないのだ。  記憶に刻まれることもなく、何も考えることもせず。ただ、すぐに忘れる。この事象の答えは、それ以外に考えられなかった。  愛などない。嫌われているわけでもない。  ただ単純に、私と彼女の間には、何もないようだった。  決定的に、『何か』が崩れた。私が縋りたかった、何かが。  ――親と子の間には何かがあるのだと、無意識に信じていた。しかし――少なくとも私と彼女の間には、『そういうもの』はなかったようだ。 「……!」  無意識だった。  気がついたら私は、彼女が考えていない、記憶の奥底から――『私』に関する記憶を全て、奪おうとした。  しかし――彼女の中に、私に関する記憶は、本当に、何もなかったのであった。 『アナタハ、希望を持っていた。自分に興味の無い母親が、心の奥底では自分のことを愛してくれているのではないかという、愚かな希望を』  誰かの声が脳内に響く。到達してしまった真実を、淡々と告げるように。  ――きっと、そうだったのだろう。『私』は希望を捨てきれなかった。本当は親から愛されているのだと、心配してくれているのだと、信じたかった。  私の声が脳内に響く。絶望と希望を、同時に抱きながら。  ――嗚呼、結局、何かを試そうとしたところで、それは無駄なことだったのだ。  『私』が試したことは、結局――この町では、私は誰からも愛されていないのだということを、証明するだけだった。  『母親』の記憶は、空っぽのようだった。そんな『母親』を見て、ふと、何かを殺しているような感覚になった。  『母親』を殺したのではない。死んだのは、記憶を失う前の私。  誰からも忘れ去られ、誰からも愛されていないことを証明してしまったことで、記憶を失う前の私は、死んだ。  人が死ぬ瞬間というものを見たのは、これで一体何回目なのだろう。親友は死んだ。親友の仇も死んだ。それを模したジュリオのことも、躊躇なく殺してしまった。  私は本当に、何かを殺すことへの抵抗感を忘れてしまったのだろう。『記憶を失う前の私』を殺したことに気がついても、ただ、この光景を眺めることしかできなかった。  スタンドに殴られたショックで昏睡状態の『女』を見て、私は次にやるべき行動を決めていた。  この家は、私の家ではない。この国は、私の住むべき国ではない。  そう思った私は、『誰かの部屋』に行き、イタリアから持ってきた荷物をまとめた。部屋を見回したが、心を動かしたものは――たった、二つだけだ。  あの写真は、既にこの世にいない少女が、無感情で二人並んでいるようにしか見えなかったが――それでもだ。  迷っている暇はない。そして私は、この家全体を見渡す。  これで、本当に最後だ。私は『記憶を失う前の私』に、とどめを刺した。 「バイバイ」  私は、この家を立ち去った。自分自身の荷物と、それと――『彼女』の遺した写真と手紙だけ、持ち去った。  『彼女』の最後の悪あがきに、ある意味での敬意を払いながら。  他人のように思っていた『記憶を失う前の私』がいなくなってから、やっと近い存在に感じたことに――奇妙な感情を覚えつつ。  少し歩いた後、後ろを振り返る。もうあの家が、見知らぬ他人の家が、どこにあるのかなんて、さっぱりわからない。 「バイバイ」  私は不意につぶやいた。  誰に向かって言ったのだろう。ただ、もう一度繰り返した。 「バイバイ」  そう呟いた私の脳内には、ナランチャの顔があった。  ただ、その顔は、なぜだか少し寂しそうだった。  もしかしたら、私が仮に親から愛されていたとしたら、もう少し迷ったのかもしれない。  親友と呼べる人が死んだとして、それでもだ。私にとって、親の愛とは――未知なるものであり、もしかしたら希望となりえたものであった。  しかし、私のことを知る者は、もういない。この国に、この町に、私の居場所なんて、最初からなかったのだ。  今、ここにいるのは唯一人。イタリアのギャングの下っ端、ナマエ・ミョウジだけだった。  そして、そんな私にとっての故郷に――私は、今から帰るのだ。  そう。私にとって大切な人たちがいる、あの場所に――