この国を発つ出発日の朝は、ついに来てしまった。 「……さて」 部屋にあった全ての自分の荷物をまとめつくした私は、そこでやっと一息ついた。 そして、忘れ物はないかと、一度部屋を見回した。仮に私が日本で暮らす道を選んだとして、ナランチャの家に忘れ物でもしてしまっていたら、どうしようもなくなってしまう。 私は一度伸びをして、息を吐いた。そして、この部屋をじっと見る。 私がこれからどんな選択をしようと、この景色のことを忘れることのないように。 そうして部屋を全体的に見回してみたが、もともと置かれていたナランチャの荷物はあれど、私個人の荷物はどこにもないように思われる。そもそも私の荷物なんて、『記憶を失う前の私』がホテルに滞在していたときの少ない荷物と、それに加え必要なものを最低限買い足したくらいのものだ。 忘れ物なんて、どこにもない。 もう大丈夫だと、もう一度部屋を細かく見ていくうちに――部屋の隅の方に、写真の切れ端のようなものが落ちていた。 ――もしかして、『女の写真』をしまいそこねたのか? 写真だと気がついたとき、私は一瞬慌てた。『女の写真』は、私がイタリアに来た理由を解き明かすかもしれない、重要なものだ。ここに置いていくわけにはいかない。 そうして慌てて拾ったが――しかしそれは、私の荷物から出てきたものではなかった。この部屋は、もともと物置として使われていたものだ。ナランチャの荷物が、ここにきて落ちてしまったのだろう。 自分のものではないと気が付き、ほっと一息ついた。だからだろうか――特に何も考えず、本当に何気なく、その写真に写っていたものを見た。見てしまった。 そして一瞬、思考が停止した。 「……これって」 そこには、見たことのない少年たちに囲まれているナランチャがいた。 彼の表情は今の顔立ちとあまり変わらないようにも見えるが、何となく、現在より少し幼くも見える。少し前の写真か、下手したら一年以上は前のものかもしれない。 中央に写っている、今とあまり変わらないナランチャの笑顔。しかし隣にいるのは、ブチャラティでも、もちろんフーゴでもない。 それに、ナランチャの髪は、今と違って金色に染め上げられていた。そんな彼の隣には、ナランチャの口から今まで出たこともないような人物が、ナランチャととても親しげに、それでいてどこか皮肉そうに微笑んでいる。 何より――その写真は破れてしまっていて、全貌が見えてこない写真であった。 破られたことが故意なのか事故なのか、それはわからない。ただ、その写真には、ただならぬ感情が込められているように思えた。 これが彼にとって底抜けに良い思い出だったのだとは、正直思えなかった。 私の知らない写真。私の知らない、ナランチャの過去。 そして、私の知らないナランチャが、私の前に立ちはだかる。 私はしばらくの間、彼と一緒に過ごしていたけれど――彼は私に、この少年たちのことを一度も話すことはなかった。 思わず、唇を噛む。ナランチャのことをもっと知りたいという気持ちが、今になって溢れ出してきていた。 そうだ。前にも、こんなことがあった。 ナランチャが、小学二年生の算数のテキストを勉強しているということを知ったときのことだ。あれから私は、彼には何も問いたださないようにしていたし、それに彼も、何も言わなかった。だけど――ずっと、心のどこかで引っかかっていた。隠されていたということ。あれに限らず、ナランチャは私に、全て隠していたのだろうか。 今にして思えば、ナランチャに限らず、彼ら全員、自分の過去を話さないという傾向があるように思える。話す記憶のない私はともかくとしても。 彼のことを、彼らのことを、もっと知りたい。そんな気持ちが、今更のように私の心に湧き上がる。 しかし、それについて話す時間は、既にない。 ナランチャたちのことを知りたかったら、私は日本で暮らさず、イタリアで暮らす道を選ぶ必要がある。だが、今では私がどちらの道を選ぶかは、誰にもわからない。他でもない、私自身にも。 ……ひとつ、落ち着こうと息を吐いた。そして、一つ決心する。 そうだ。結局、今の私には――この写真は、見なかったことにするしかないのだ。私は写真を元の位置に戻して、部屋を出た。 ――この気持ちは、もう出さない。日本で暮らす道を選んだとしても、この思いすら思い出にしてしまおう。 ただ、もし、もし仮に、私がイタリアに戻ってくる道を選んだとしたら――今度こそ、自分の気持ちに正直になろう。 その日が来ることがあったなら――あなたたちのことが知りたいと、あなたのことを知りたいと、そう言おう。そうやって、自分の心にこの想いを刻みつけた。 窓から差し込む日差しが、眩しかった。 私は結局何も言わずに、ナランチャと二人で家を出た。 昨日の夜とは打って変わって、私たちには無言が多かった。お互い、何を話していいかわからなかったのかもしれない。 タクシーを使って、空港まで向かったが――沈黙の中、あっという間に空港まで着いてしまった。 集合場所に着くと、ブチャラティとフーゴは既に到着していた。 「まったく、遅いですよ、ナマエ。出発する君がそんなに遅くてどうするんですか」 「す、すみません」 フーゴが呆れたように言うので、私は反射的に謝ってしまった。しかしナランチャは、フーゴに対して不機嫌そうに言う。 「……別に、けっこう早めに来てるしいいじゃあねーか。まだ離陸まで時間あるしさー」 「そりゃあ、そうですけど。ともかく、ナマエ。飛行機に乗ったら寝ておいて、日本での仕事に備えておいてください」 「はい、わかってます」 正直、寝不足ではあるので、この調子だったら飛行機の中で眠れるだろう。 そうやって会話をしているうちに、ブチャラティとフーゴにより簡潔に任務の内容を再確認された。この時点で、私が日本に戻ってくるか否かの件について、触れられることはなかった。 この時点での私たちの会話に、ナランチャが口を挟むことは、一度もなかった。 「ともかく、ぼくらの見送りはここまでです」 フーゴの言葉を皮切りに、空気が変わった。嗚呼、もう別れの時間なのだ―― 一週間後にまた再会できるか、永遠の別れになるかは、今の時点では誰にもわからないけれど。 「じゃあ、ナマエ。頼んだぞ」 しかしブチャラティは、任務のことについて、これしか言わなかった。 「……はい、任せてください」 別れの言葉も言えない。かといって、再会を願う言葉も言わない。ギャングの上司として彼は、これしか言うことができないのだろう。それが何だか、少し寂しかった。 「しくじるんじゃあないですよ。君が最後の一人を逃しちまったら、誰が落とし前をつけると思ってるんです。……まあ、君なら、その点においては大丈夫でしょうが」 「ありがとうございます。……大丈夫です」 フーゴも、仕事のことしか口に出さなかった。仕事においては、私のことを信用しているような口ぶりにも思えたが、仕事を終えた後の私がイタリアに戻ってくるとは、あまり思っていなさそうだった。 ――そして。 私はゆっくりと、最後の一人に目を向ける。 静かにこちらを見つめてくるナランチャと、目が合った。 「ナランチャ」 私はここで、ナランチャに何と声をかけるのが正解なのだろうか。 グラッツェ――ありがとうと、面と向かってそう言ってしまうべきなのだろうか。 けれど、それを言ってしまったら、本当に、お別れのときが来てしまう気がして。 本当に、彼に二度と会えなくなってしまうような、そんな気がして―― 「日本に帰れば、ナマエは幸せに暮らせるんだろ。なら、戻ってこないほうがいい」 二人が触れなかった事について、ナランチャは静かに話した。 拒絶ではない――私のことを考えているからこそ放たれた言葉に、心が締め付けられてしまう。彼の表情を見ることがどうしてもできなくて、私は俯いてしまった。 「そんなこと」 こうは言ったものの、返す言葉はどうしてもなかった。少しの間、私たちの間に沈黙が流れる。 何も言えないまま、ふと顔をあげると、ナランチャは静かに笑みを浮かべていた。それが何を意味しているのかは、私にはよくわからなかったが――それでも。 「ナマエ。……元気でな!」 最後にナランチャはこう言った。『またな』とは、言ってくれなかった。 「ナランチャ。……ありがとう」 最後に私はこう言った。『またね』とは、言えなかった。 搭乗手続きを終え、私は飛行機に乗り込む。窓の外を眺めながら、機体がいつの間にか地上から離れていくことを感じた。この地にはもう戻ってこないのかもしれないと、そう思いながら。 「…………」 外を眺めながら、私は考える。本当に、彼らへ、彼へ、借りを返さずに日本で暮らす選択をして良いものかと。 それに私は、ナランチャと交わしたいくつかの約束を果たせていない。 ナランチャが運転する車に乗れなかった。 ナランチャと一緒に話そうと言っていて、まだ話せていないことだってたくさんある。 そして私は、彼らのことも、ナランチャのことも、何も知らないままなのだ。知りたいと考えることこそが、遅すぎたのかもしれないが。 それに、いつか一緒に見ようと言っていた夜景は、夕焼け色に染まっていた。あの風景も、本当に美しい風景だったけれど。それでも、本当に彼が見せたかったのではなかったのかもしれない。――ナランチャが本当に見せたがっていた風景を、見てみたかった。 日本で暮らすべきか、イタリアに戻ってくるべきなのか。正直、今の時点ではわからない。 それを判断するためには、日本に本当に私の居場所があるか、それを見極める必要がある。 それでも私は、この想いを振り切ってまで、日本で暮らす意味はあるのだろうか、と思ってしまう自分に気がついていた。 ――君の両親も心配しているだろう。親とはそういうものだ―― いつか言われた、ブチャラティの言葉が頭を駆け巡る。 日本に暮らしているのであろう、血の繋がった私の親。彼らが、私のことを愛していてくれたのなら、日本で暮らす『義務』とも言うべき使命感は生じる。 だけど――もし、そうじゃなかったら? 私はもしかしたら、イタリアに戻ることができるのではないか? そう思ってしまっている自分は、確かに存在していた。 それにしても、何故こんなに胸が苦しいのだろう。この気持ちは、一体何なのだろう。自分でも理解できない、初めての感情に戸惑ってくる。 ――ブチャラティ。フーゴ。……ナランチャ。 少なくとも、今の私にとって、私の記憶の中にある中で――一番大切な人たちの名前。それらを心で反芻しているうちに、私は睡魔に襲われた。 私は、抵抗せず眠りに落ちた。その直前、誰かの笑顔が脳裏に浮かんだ気がした。