30.音楽の鳴る夜

 家に戻ってきて、シャワーを浴びて。結局ナランチャとあまり話す暇もなく、寝る支度をほぼ済ませてしまった。 「…………」  いつもの私だったら、そのままひとりで眠るところだった。彼に一言、おやすみと声をかけるぐらいで。  しかし、今日の私は違った。私は少しだけ緊張しながら、自分にあてがわれた部屋を抜け出して、ナランチャの寝床へ向かった。  ナランチャの部屋を訪れると、彼は寝間着姿にヘッドフォンをしながら、自分のベッドの上で寝転んでいるところだった。 「ん? なんだーナマエ、まだ起きてたのか?」  私に気がついたナランチャはヘッドフォンを外した。彼は一体、何の曲を聞いていたのだろう。  邪魔をしてしまっただろうか。少し悪いことをしたかと思ったが、それでも私は、意を決して言葉を絞り出した。 「……うん、眠れなくて。それに、フーゴに今日はあんまり寝るなって言われたしね。時差のこと考えると飛行機の中で寝ておけって」 「ふうん。ナマエも大変だな」  ナランチャは気だるげにこちらを振り返った。眠そうではあるが、私の会話に応じてくれる気はあるらしい。緊張が解けないままだったが、私は彼に話しかける。 「えっと、それよりナランチャ。今。何聞いてたの?」 「ああ、それはな……」  そういうとナランチャは軽い仕草でCDプレイヤーからヘッドフォンを外し、スピーカーで音楽を流した。  ――アップテンポの曲。  この曲は、私もナランチャも大好きな曲だ。否、ナランチャの好きな音楽を私も好きになったというべきか。  私はそっとナランチャの方に向かって、彼の隣に座ってその曲を聴いた。彼は特に気にした様子ではなく、私の方に寄り添ってくれる。 「ほんと、いい曲だよね」 「へへ、だろッ?」  音楽がかき消えない程度に、私たちは小さく囁きあう。好きな音楽に包まれながら、近すぎると思うくらいに私たちはお互いを近くに感じていたが、それがどうも、心地よかった。  そうしてしばらくの間、私たちは二人で音楽を聴いていた。ナランチャと聴く音楽は、いくら聴いても飽きなかった。 「ナマエはさ、この曲、好きなのか?」 「うん。歌詞は英語でよくわからないけど、聞いてると元気が出る気がする」 「そっかァー。オレも好きだよ、この曲」 「……知ってる。ナランチャが聞いてるのを聞いて、好きになった曲だから」 「あれ、そうだったっけ? へへっ。なんか、ちょっと照れるな」 「そう? ……それとね、ナランチャの好きな曲、もっと聞きたい」 「そっか。じゃあさ、ナマエはこっちのアルバム聞いたことあったっけ? これもいい曲ばっかだからよ、聞いてみようぜ――」  一緒に音楽を聞く。好きな音楽を見つけて、ナランチャと語る。  そんな、少し前にぼんやりと願っていた小さな願いは、ようやく叶った。なのに、もうこんなことをするのは、今日でおしまいなのかもしれない。  もっと色んな曲を聞きたい。もっと色んな曲を知りたい。もっと色んな曲を好きになりたい。そして。  好きになった音楽を、もっとナランチャと語り合いたい。  そう思っていても――もうすぐ、今日という日は終わってしまう。終わりかもしれない一日が、終わってしまう。  それがわかっていても、もう少しだけこの時間が続いていてほしいと――心の中で、ずっとそれを願っていた。  こうして二人ずっと、音楽を聞いていたけれど、さすがに夜が更けてきた。深夜一時――いつもだったら、とっくに寝ている時間だ。  ナランチャも、さすがに眠そうな顔を隠さなくなってきている。後ろ髪引かれるような気持ちで、私は息を吐いた。 「……夜も遅いし、そろそろ寝なきゃいけないよね、ナランチャは」 「そういえば、ナマエはあんまり寝ないつもりなんだっけ?」  彼がきょとんとした顔で私の方を見つめてきたので、私は頷いた。 「うん。でも、ナランチャは寝なきゃだよね。どうしても、名残惜しいけど」 「……別に、オレはもうちょっとくらい、ナマエと話してもいいけど」  頬を掻きながらのナランチャの言葉に、私は思わず驚いてしまった。  正直嬉しかったけれど、しかし彼はそう言いつつも、やはり眠そうだった。  私は少し考えた。そして、少し躊躇いつつも、思い切ってこう言った。 「……じゃあ私、隣に毛布持ってきて、そこで寝ていい? ナランチャが寝るまで、一緒に話そう」 「えッ!? えーと、それは、そのォ……」  うろたえるナランチャの気持ちも、よくわかる。この二週間程度、私たちは同じ屋根の下で寝泊まりしつつ、絶対に違う部屋で寝ていた。それについて、私たちが特に何か言うこともなかった。暗黙の了解といったやつで、今までの私たちの間には、特に何もなかった。  そして、これからもそうなのだと思っていたけれど――今日で、最後なのかもしれない。そういった気持ちが、私の口を動かした。  ナランチャの性格を考えても、今になって彼が私に何かをするとも思えなかったが――もしそうなったとして、『そうなってもいいや』と、少なからず思っていた。無意識的に、そう思っていた気がする。 「……わ、わかったぜ。じゃあ、その、音楽かけていいか? オレがいっつも寝る前にかけてる曲なんだけど」 「……いいよ。一緒に聞こう」  ナランチャも緊張していたようだし、私の方も自分から言いだしておいて緊張していた。はやる気持ちを抑えるように、私は毛布を取りに行った。  彼は私が戻ってくると、息を吐いた。そして、CDプレイヤープレイヤーの再生ボタンを押す。  止まりそうになる息をゆっくりと吐き出して、私はそれに耳を傾けた。  しかし、私の持っていた不安のような感情も、もしかしたら杞憂だったのかもしれない。  ナランチャがやや控えめな音量で曲を流し始めると――私の心には、穏やかな風が流れ始めていた。  緊張が解けていくのが、心で分かった。ナランチャも、同じくそうだったのかもしれない。彼はまどろんだ表情で、ゆっくりと呟いた。 「こういうのって、結構いいかもな。誰かが隣にいて、一緒に話しながら寝るのって」 「私もそう思う。ひとりぼっちで寒い中、孤独に眠るより。音楽を流しながら誰かと話して、こうやって寝るほうが、楽しい」 「だよなァ~。こうやって、あったかい布団で寝れるって、いいよな――」  寝ぼけているのか、いつもよりも彼の本音が見えた気がした。普段から素直な反応を見せていたナランチャではあったが、それでもこのように踏み入った感情を吐露させることは、あまりなかったように思う。 「オレがこうやって、あったかい布団の中で、好きな曲を聞きながら寝れるのも、ブチャラティたちのおかげなんだよなァ……」 「ふふ、ブチャラティは本当に、ナランチャにとってのヒーローなんだね。そして、私がこうやっていられるのも、ナランチャのおかげ、だね。やっぱり、私にとってナランチャは、ヒーローだよ」 「そう、だよな。うん、そうなんだよな――」  そうしているうちに、いつの間にか、いつも通りの会話に戻っていった。緊張なんてなかったように、私たちの間には穏やかな空気が流れている。  そして長い間、ずっととりとめもないおしゃべりをしているうちに、時間が少しずつ、過ぎていった。  最後かもしれない会話を、惜しむように。 「あ……もう、こんな時間」 「ん……」  気がついたら、もうかなりの時間が過ぎていた。私の言葉に、ナランチャは眠そうな様子で時計を確認した。 「え、えっと、さすがに寝なきゃね。おやすみ、ナランチャ」 「……うん」  ナランチャは返事をしたかと思うと、言葉少なく寝返りを打ってしまった。本当に眠いのだろう。  こうは言ったが、もっと話したい、という気持ちは、未だに私の中に渦巻いている。  それでも、さすがにもう夜も遅いし、これ以上ナランチャに夜ふかしに付き合わせるわけにもいけない。  そう思いながらしばらく寝返りをうったが、目は冴えていく一方だし、ナランチャと話したい気持ちは一向に収まらなかった。 「……ねえ、ナランチャ」  だから、一か八か、声をかけてみた。もし今でも眠っていなかったら、もう少しだけ話せないかと、そんな淡い期待を寄せながら。  しかし、返事は返ってこなかった。よく耳を澄ますと、規則的な寝息が聞こえてきただけだった。  もう、寝てしまったのだろう。ほんの少しだけ残念に思ったが、そう思った気持ちは頭から打ち消した。  そう。今の私が彼に伝えるべき言葉は、たったひとつだけ―― 「今まで、ありがとう。……おやすみなさい」  こう、小さな声で呟いた。  私の人生、これからどうなるかは、全くわからなかったが――少なくとも、今の時点での感謝の気持ちを、どうしても伝えたくなったのだ。  それでも、返事らしい返事は返ってこなかった。ただ、ナランチャが小さく、「ん」と答えたような気がした。  あれから長い間、目を開き続けていたけれど、不思議とあまり眠くなかった。そして、今の段階では、日本に行くことへの不安もあまりなかった。  今の私の脳内にかけめぐっていたのは――ずっと、このネアポリスでの出来事だった。そしてその記憶の中には、いつだって彼らがいた。いつだって、ナランチャがいた。  そっと、隣で眠っているナランチャの方に目を向ける。深い眠りに落ちているのだろう、無防備な顔で、起きる気配は全く見られなかった。  彼に手が届きそうで、でもどうしても届かなくて。伸ばしかけた手を引っ込めて、私は眠りに落ちた。