それから私が伝言の場所に向かうと、ナランチャは既に、そこで待っていてくれた。彼はいたっていつもどおりの様子で、空を仰ぎながら立っているようだった。 「お、ナマエ。終わったのか」 私が何か声を掛ける前に、ナランチャの方が私に気がついた。彼は軽く笑って、明るく私に声をかける。 しかしそんな中でも、彼はどこか、緊張しているようにも見えた。 そんな彼の様子に、私は不思議に思う。ナランチャはいったい、何をするつもりなのだろう? 「うん。えっと……どうしたの? ナランチャ。こんなところに呼び出して」 そんな気持ちをそのまま伝えると、彼はなんとなく、ばつが悪そうに頬を掻いた。 「うーんと、呼び出したつもりがあったわけじゃあねーんだけどよォ~。……ま、いっか。ナマエ、ちょっと着いてきてくれ」 そう言ったナランチャは、さっさと歩きだしてしまった。一瞬驚いてしまったが、置いていかれないように私も慌てて着いて行く。 「ねえ、どこに行くつもりなの?」 私の言葉にも、ナランチャは答えず、ちょっとだけいたずらっぽく笑った。 「うーん、そうだなァ。へへっ、それは――見てのお楽しみ、だな!」 「……?」 疑問に思いつつ、私はナランチャの背中をそのまま追いかける。 そうしていると、ふと、気がついた。いつの間にか、太陽の位置が低くなってきている。それは、今日という日に終わりが近づいてきているのだということを、示すものに他ならなかった。 今日という日に彼と一緒にいることのできる時間が、いつの間にか少なくなっていっている。それを実感してしまい、心が締め付けられるような気持ちだった。 ずっと、ナランチャの少し後ろを歩きながら、ぽつぽつと話をしながら歩き続けていた。どれだけ歩き続けていたのかは、どこをどう歩いてきたのかは、正直よく覚えていない。少し足が疲れてきたが、そこは別にいいか、と思った。そもそも、あまり重要なことだとも思わなかった。 今の私にとって最も大切なことは――ナランチャと過ごすことのできる、この時間だけなのだから。 そうしているうちに、太陽が夕焼け色に輝く頃になって、そこで初めて――ナランチャは、ようやく立ち止まった。 「ほら、ナマエ。ここだぜ」 そこでナランチャは得意げな顔をして振り返った。そして、遠い向こう側を指さした。 彼に言われて辺りを見回して、私はようやく気がついた――私たちは、結構高いところに来ていたようだ。それはもう、町並みが一望できるくらい、高い場所だ。 「ここって……」 そして、私は気がつく。眼下に広がる、夕焼けに沈む町並みに。 過ごしやすい、秋風吹く爽やかな空気。一望できる町並みから、このネアポリスという街の美しさがありありと伝わってくる。 私はしばらく、その景色に釘付けになってしまっていた。ここまで歩いてきた脚の疲れも、吹っ飛んでしまうようだった。 それは、今まで見たことのないくらい、美しいもののように思えたから―― 「前、夜景を見に行こうって言ったろ? だから、来てみたんだけど……」 ナランチャはそこでこちらを見た。そして、夕焼け色に染まった笑顔を私に見せる。 「なっ? やっぱりちょっと遠かったけどさ、いい場所だろォー?」 「うん。……とっても、綺麗」 まだ日は沈みきっていないので、夜景とは言えないかもしれないけれど。それでも、今のここの風景は、とても綺麗な景色だった。 それは、隣にナランチャがいるから余計にそう感じるのだろうと、そうも思った。 「オレは、ナマエが幸せに暮らせるなら、それが一番いいんじゃあねーかなって、そう思ってる。けどさ、ナマエには、ここでのことを忘れろとは言いたくない。なんていうか、いい思い出にしてほしいんだよ。みんなのことも」 夕焼けを背にしたナランチャは、独り言のようにそっと呟いた。私は、そんなナランチャに目を向けた。 「オレと一緒にいた、ことも」 ナランチャと一緒にいたことを、私に『いい思い出』にしてほしい。彼は確かに、そう言っている。自分の心を、言葉にして伝えようとしてくれている。 ――そうか、私が日本に帰ってしまったら、ナランチャたちは思い出になってしまうのか。 そうなったら、もう会えないのか。もう、話すことはできないのか。当たり前のことなのに、そんなことを思ってしまった。 「……ナランチャは」 だから、私は口を開いた。 ナランチャとの、もしかしたら最後かもしれない、この『デート』。私も彼に、今日のことを忘れてほしくなかった。 どうせなら、『いい思い出』にしてほしかった。楽しいという記憶を刻みつけてくれたナランチャに、私からも、楽しいという記憶を与えられていたらいいなと、そう思っていた。 この言葉の続きを出すには、勇気が必要だった。 しかし私は、続きの言葉を一気に吐き出した。 「私と一緒にいて、楽しかった?」 緊張した。顔が赤い。鼓動が耳まで聞こえてくる気がする。だけど、後悔はしていなかった。 ナランチャは私のこの言葉を聞いて、一瞬だけ虚を衝かれたように目を瞬かせた。 だが、迷う素振りは見せず――それでいて、軽く頷いてくれた。 「……ああ」 そして、彼はふわりと優しく微笑み、言葉を重ねた。 「オレはナマエと一緒にいて――スッゲー、楽しかったよ!」 その笑顔がまぶしくて、輝いていて、目を開けていられないくらいで。それを眺めながら、私はそっと、目を細めた。 永遠に、二人でここにいたい。ずっとこの景色を眺めながら、とりとめもない話をしていたい―― 私は心のどこかで、そう願っていたように思う。しかしもちろん、そんなことが叶うはずもなかった。 「……そろそろ、家に戻らないとね」 「そう、だな」 私の言葉に、ナランチャも渋る様子はなかった。しかしどこか寂しそうだったし、私も、そうだった。 だんだん空が暗くなってきたけれど、まだ、完全に日は沈みきっていない。この国では、この季節は夜になっても明るいのだ。帰りに家に戻る時間のことも考えると、さすがにそろそろ帰らないと、明日に支障が出てしまう。 「じゃあ、行こうぜ」 「うん」 そう言いつつ、帰路の途中に一度、振り返った。まだ完全に暗くなっていない町並みが、見えてきた。 ナランチャが見せたがっていた完全な夜景を見る日は、もう来ないのかもしれない。きっと、来ない可能性の方が高いのだろう。 今は、きっとそれでいいのだろうと、そう思った。 夕焼け色の景色は、ただただそこに有り続けていた。