私は思わず、ブチャラティの顔を見つめた。 ――日本に行く? 私が? 彼の言葉が、すぐには飲み込めなかった。もしかしたら、変な顔をしていたかもしれない。 私にはそれくらい、彼の言葉は突拍子も無いもののように思えていた。 しかしブチャラティは、そんな私のことは気にせず、言葉を連ねる。 「ナマエ。オレは君の上司として、君に命令を下す」 思わず唾を飲み込む。 彼の言葉の続きを聞きたいような、聞きたくないような、そんな心境になっていた。 「君は、日本に行った、ジュリオチームの最後の一人を始末するんだ」 ブチャラティは、淡々とこう告げた。彼の放った言葉に私は、一瞬思考を止めてしまっていた。 それでもブチャラティは、構わずに言葉を続ける。 「組織の裏切り者、ジュリオチームのヤツらは、組織に始末される運命だ。オレたちはあくまで、組織の上の者に命令されて補佐的に動いているに過ぎないが――ジュリオチームのヤツらは、君を探し求めている。また、君が日本人である以上、他でもない君自身が、日本に向かったヤツを始末する役目を持つのは、悪い話ではないだろう。もちろん、リスクはあるわけだが。……オレは、君ならできると思っている」 思いもよらぬ展開だ。私はただただ唖然としながら、彼の言葉の続きを待った。 「そして、一週間以内にことを片付けろ。ヤツを始末できても、できなくても、一週間後に必ず連絡を入れるんだ。そして一週間後に、君がこのイタリアに戻ってこなかったら――君は『死んだ』と、組織に報告する。その場合、君はできれば整形をして身をくらませたほうが安全かもしれないな」 これらのブチャラティの言葉は、私の心を大きく揺るがせた。 私の、これからの人生さえも。 「それって」 日本に行って、私自身の命を狙う者を始末する。これは『組織』からの命令と、私にとっての安全という利害が合致した仕事内容であるが―― 一週間後に私がイタリアに戻ってこなかったら、たとえ私が生きていようと、組織に『組織の構成員であるナマエ・ミョウジは死んだ』と報告する。ブチャラティはそう言った。 ――つまり、それは。 ブチャラティは、私のことを、私にとっての故郷である日本に帰そうとしているのか? 私が思い出すことのできていない、故郷に。 「えっと、ブチャラティ、私……」 何か言おうとするも、上手く言葉が出てこなかった。私は、彼に、彼らに、何を伝えるべきなのだろう。 ふと、ブチャラティから視線を外してナランチャの方を見ると、何を考えているか読み取れないような表情で私のことを見ていた。なんとなく直視できなくて、目をそらしてしまう。 「……君も、ひと月以上もこんな異国の地にいて、きっと君の親も心配しているだろう。親とはそういうものだ」 そしてブチャラティは私の言葉には直接的には答えずに、遠回しにこう言った。この言葉は、やけに頭に残って、離れそうになかった。 ――確信した。彼は確かに、私のことを故郷に帰そうと考えている。 日本に帰って、ギャングなんかとは縁を切って、自分の町で幸せに暮らせと――彼は、そう言っているのだ。 私はこれまでギャングとして生きてきて、わかっていたつもりだ。――裏切り者は、始末される。 ということはつまり、ギャングになった以上、普通はギャングから抜けることはできないのだろう――しかし、ブチャラティはそれでも私のことをギャングから抜けさせ、私を故郷に帰そうとしている。ある程度はリスクもあるはずなのに。 それは彼が、心から私のことを考えているからなのだろう。きっと、彼の目から見た私の幸福は、この国でギャングとして暮らすことではなく、故郷で平和に暮らすことなのだ。 ブチャラティは、そういう人だ。優しすぎるくらい、優しい面がある人なのだ。 「えっと、でも私、まだみんなに借りも返せていないし」 しかし、それがわかっていても、私は迷っていた。平穏な生活は悪くないのだろうと――そう思う気持ちも、全くないわけではなかったが。 「……金のことは気にするな。組織の裏切り者を始末するための必要資金だ。航空券もすぐに用意しよう」 ブチャラティにこう言われても、私は返事をすることができなかった。未だ、心の整理がついていなかった。 まず率直に、このまま彼らと離れるのは嫌、という素直な感情があった。次に、彼らにお世話になりっぱなしで、その借りを返せていない、ということもあった。 しかし、日本に行ってみたい気持ちも、確かにある。私は、正直かなり混乱していた。 「君は――本来、こんな場所にいるべき人間じゃあないんだ」 そんな私の心境を知ってか知らずか、ブチャラティは独り言のように呟いた。 彼は、私のことを思ったからこそ、このような提案をしたのであろう。そう思うと、皆と離れるのは嫌だと言えるはずもなかった。 日本には、いつか行くべきだとは思っていた。自分は何者なのか、何故イタリアにやってきたのか、今の私には知るすべもないのだから。 M県S市。そこに行って、私を知っている人を探してみようかと、夢想していたこともあった。 それでも漠然と、かなり先の話になると思っていた。イタリアで全ての片をつけてから、自分の思い出せない故郷である日本に行くべきだ。そう思っていた。 しかし、事情が変わった。私は全ての片をつけるために、日本に行かなくてはならなくなった。 自分が『殺した』かもしれない相手の、チーム最後の一人からの報復。それに対し、私は『組織』の命によって返り討ちにしようとしている。 その後、自分のことを知る人を探す。自宅を探し、家族に出会う。友人にも。そうすれば私が何故イタリアに来たのか、その理由もわかるだろう。 そして、それから――それから? 私は、イタリアのギャング組織から脱退して、日本で平和に暮らすべきなのか? 記憶のない、異国の地にある故郷で、記憶のない家族と、記憶のない友人たちに囲まれて、私はイタリアの出来事を『忘れて』生きるのか? ――本当に、これでいいのだろうか。 私の心には、迷いが生じていた。 「少し、準備にも時間がかかるだろう。準備ができ次第君を日本へ送る。そうだな、二日後には出発できるよう動いてくれ」 「ブチャラティ」 彼に対して何か言おうとするが、上手く口が動かせない。 ナランチャにも、フーゴに対しても、今の私は何も言えそうになかった。 「……悪かったな。本来君はこちらの世界に関わるべきではなかったのに、こんな世界に巻き込んでしまって」 そう言ったブチャラティの顔がどこか寂しげに見えて、私はこれ以上、何も言うことができなかった。