次の日。私とナランチャはいつものように、ブチャラティの待つレストランへと向かっていた。 二人並んで歩きながら、ナランチャと他愛もない会話を繰り広げつつも――私はどこか上の空で、会話とは全然違ったことを考え込んでしまっていた。 昨日過ごした、おそらく『デート』と呼んで良い時間のこと。それのことを思い出すと、昨日の緊張と楽しかった時間のことを思い出して、どうにも悶えたくなってしまう。 そして同時に、どうしても考えてしまうのは――スピードワゴン財団の一員とか言う男が放った、ある言葉のことだった。 『写真の女を見つけることができなかったから、帰ることができていないのかと思っていました』 あの男は、他にもいろいろ気になることを言っていたが、中でもひときわ気になるのがこの言葉だ。 写真の女。それは、『記憶を失う前の私』の荷物の中に紛れていた写真に写る、美しい日本人女性のことだろう。写真の裏にあった、『この女は生きている。』という、私自身の筆跡で書かれた文字のことを思い出す。 男のあの口ぶり、写真の裏に書かれていた文字のことを考えると――『記憶を失う前の私』は、写真に写る女を探すことを何者かに依頼されたから、女を探すためにイタリアに行ったのだろう。そして実際に見つけることはできたのだろうが、私は記憶を失い、日本に帰ることが叶わなくなった。依頼した何者かは、私がいつまでも日本に帰ってこないから、スピードワゴン財団の男に命じ、私のことを探している。私を探すよう命じた者の名は、確か空条博士とか言っていた。 となると、あの日本人女性は、一体何者なのだろう? 空条博士とやらは何故、写真の女を探しているのか? そして何故それを、私に頼んだのだろう? そしてやっぱり――彼らは、私のことを、日本に強制的に帰す気なのだろうか。謎が深まるばかりで、私は頭が痛くなってくる。 これから私は、どうなるのだろう。今の時点では、全く判断することができないが――ナランチャたちと引き離される可能性があると思うと、それがとにかく、たまらなく怖かった。 「おいナマエー、大丈夫か? 怖い顔して」 突如、ナランチャの声が鼓膜に響き、ふと正気に戻る。視界を少し横の方に向けると、彼は私の顔を、どこか心配そうに覗き込んでいた。 「え、そんなに変な顔してた?」 「うん。こんな顔してたぜ」 そう言って、ナランチャは眉間に全力で力を入れた。やけに力の入った彼の顔を見て、私は思わず吹き出してしまう。 だけど、そんな顔をして上の空でいた私と会話をしていても、ナランチャはあまり楽しくなかっただろう。それに気づいた私は、慌てて謝った。 「ご、ごめん。ぼーっとしてたね、私」 「別にいいって。昨日のこと考えてるんだろ? そりゃあ心配になる気持ちもわかるけどさァー、大丈夫だって。あんま心配すんなよ、オレも一緒にいるからさ」 彼は一体、どこまで見抜いているのだろうか。 ナランチャは時々、とても鋭い。そして、彼の鋭さを孕む視線に射抜かれるたびに、核心をついた発言を聞くたびに、いつもドキリとしてしまう。 とりあえず私は一旦深呼吸して、心を落ち着かせてから言った。 「……うん、そうだね。ありがとう、頼りにしてるから」 私がこういうと、ナランチャは嬉しそうに笑う。それがどうにも、眩しかった。 そもそも、誰かと話しながら上の空で考えること自体、良くない。考えことにも上手く集中できないし、話していることにも集中できない。両方中途半端になってしまう。それを実感した私は、ナランチャとのとりとめのない会話を楽しむことにした。 私にとっての、ヒーローとの会話を。 「ナマエ、ちょっと良いか」 レストランに到着して、私たちはそれぞれ席に着いた。そしてブチャラティが私のところに来て、おもむろに声をかけてくる。 ナランチャは、フーゴに何か話しかけられているようだ。それをちらりと確認した私は、ブチャラティの言葉に返事をした。 「どうしたんですか」 「ここ最近、君のことを探している人がいなかったか?」 予想外の言葉に、私は半ば驚きながらも答える。まさか、ブチャラティにそんなことを聞かれるとは思っていなかったからだ。 「そうなんですよ。昨日、変な人に声をかけられたんです」 「……なんだと? 無事だったのか?」 「ええ、まあ」 相手の記憶は奪ってしまったのだから、相手の方は無事とは言えないが。 「ナマエが無事なようなら、それで良いんだが……」 ブチャラティは、少し考えるような素振りを見せた。なんだか不思議な気分になって、私は首を傾げながら聞く。 「どうして、そんなこと聞いたんですか?」 「ジュリオチームの一人が、このあたりをうろついている、という情報が入ってきたんだ。だから、ナマエのことを探しているかもしれないと思ってな。しかし、ナマエのことを探しておきながら、ナマエに手を出さないのは何故だ……?」 ジュリオ。その名前を聞いて、私は頭を抱えた。 そうだった。私は、考えようによっては、私のことを探す者のこと以上に、面倒なことを抱えているのだった。 だけど。まずは、ブチャラティとの会話が噛み合っていなかったことを正さなければ。そう思って、私は口を開いた。 「あ、えと、ブチャラティ。違うんですよ。昨日、私のことを探していたのは、ジュリオチームの人じゃあないんです」 「なんだと? ……詳しく教えてくれないか」 「はい、わかりました」 ブチャラティがこう言うので、私は彼に伝えた。 スピードワゴン財団の一員だとかいう男が、何者かの司令によって私を探していたこと。彼らが、私のことを、日本に戻そうとしていること。 私が話している間、彼はずっと、難しそうな顔をして聞いているだけだった。 その沈黙がなんだか痛くて、どこか居心地が悪かった。 「それよりブチャラティ。さっき、ジュリオチームの一人がこのあたりをうろついている……って言っていましたよね」 話を変えようと、私は口を開く。 そう。私は今、ジュリオのチームの人間に、命を狙われているのだった。ジュリオのことを殺したのが私であると、ジュリオチームのヤツらが突き止めているかどうかまでは不明だが。 そもそも、『ジュリオ』を殺したのが私なのかどうかは、私だって覚えていないのだけれど。 「ああ。誰がジュリオを殺したか、『オレは知らない』が――疑われる可能性がある以上、気をつけたほうが良いだろう。それに、ヤツらを見つけることも、オレたちの任務だからな」 私は頷いた。警戒に越したことはない。 「それと、これも伝えておく。ジュリオチームの残りは、あと二名だ。もっと上の立場の人間が、まだ残っていた三人を始末したらしい」 「そうですか。……あれ? 私たちが、ジュリオチームのメンバーを探して、始末するんじゃなかったんですか?」 てっきり、ジュリオチームの全員を、私たちが見つけるものだと思っていたのだけれど。 私が疑問を口にすると、ブチャラティは軽く頷いて言った。 「まあ、そうなんだが。だが、もともとオレたちは、裏切り者を始末できるほどの立場ではない。オレがジュリオ殺しの犯人を探している過程で、ジュリオチームの人間が裏切ったことで、いろいろと有耶無耶になってしまったから、結果的にオレたちも裏切り者を見つけることを命じられているだけだ」 「そういうものですか」 裏切り者を始末することの主導権は上の者にあって、私たちはあくまで補助的に動いているに過ぎないのだろう。私は納得して、軽く息を吐いた。 少しの沈黙の後、ブチャラティは突如、独り言のように口を開いた。 「始末された二人は、それはそれは惨たらしく殺されたようだ。『組織』に反発した者の末路……ってところだろうな」 「取引を邪魔しただけで、そんな酷い目に遭うもんなんですか? ジュリオチームは、取引を邪魔しただけですよね。まあ、邪魔してきた人たちは私たちが始末したわけですけど」 「ボスはそういう人物だ。『組織』に絶対忠誠を誓った時点で、『組織』の邪魔をするという行為自体許されない。たとえその『取引』がごくくだらないものであったとしても、それは悪意ある危険信号とみなされる」 ブチャラティの淡々とした口ぶりに、どこかゾッとするものを感じた。 自分が所属しているチームは、正真正銘のギャング組織であるのだと――改めてそう思うと、なんだか背中に冷たいものが走った気がした。 「……ああ、それとナマエ。そういえば、君にまだ伝えていないことがあった」 私の動揺を見抜いているのか、いないのか。ブチャラティは、少し軽い調子で話しだした。 「なんですか?」 それから彼は私に、仕事のことについて伝えた。いろいろなことを抱えていた私は、既に疲れ切っていて、本当ならばもう休みたい気分だった。 だけど、そういうわけにもいかない。私はなんとか集中して、彼の話を頭に叩き込んだ。 それでも、だ。私はどうしても、早くナランチャのもとに戻りたいと思ってしまった。 それくらいのことは、許してほしい。 「ふう」 ブチャラティとの会話を終えた私は、ナランチャたちの元に戻ろうとした。そしてブチャラティは一時的に、電話をするために席を外したようだ。 ナランチャとフーゴの会話が、少し離れた位置から聞こえてくる。別に盗み聞きしようってわけではないけれど、なんとなく会話に耳を傾けた。 だけど――聞こえてきた会話は、今の私には、即座に理解のできないものであった。 「じゃあナランチャ、次の問題です。七×六はいくつでしょう」 「えと……四十?」 「あー、惜しいですねえ。いいですか、七×六は、しちろくしじゅうに、四十二です。やっぱり、七の段はまだ怪しいですね。ほら、次の問題出しますよ」 ――え? どういうこと? 私がその光景を呆然と眺めていると、ふとナランチャと目が合った。 そして彼の表情が、一瞬で焦りに塗り替えられていく。ナランチャは、慌てたように声をあげた。 「あ――ッ! フーゴ、やめだやめ! あとにしよーぜッ」 「……どうしたんです? 急に。何かありました?」 「え、えーとォ……。ほ、ほら! ナマエが戻ってきてるっつーことは、ブチャラティももうすぐ戻ってくる! ほら、そろそろ仕事の準備をしなきゃならねえ。だろ?」 「ブチャラティはまだ電話をしているようですけど。勉強は、時間があるときにしなくちゃ。ぼくらだって、いつも暇ってわけじゃあないんですから」 「で、でも……」 この会話の流れがいまいち飲み込めず、私は疑問をそのまま口にする。 「ナランチャ、それって」 「あ、えっと……」 歯切れ悪そうなナランチャに代わって、フーゴがあまりにも、あっさりと言った。 「……ああ。ナランチャは今、九九の練習をしているんですよ。それが何か?」 この言葉が私にどれだけの衝撃を与えたか、フーゴにはわかるまい。 「えーっと……そ、そうだ。私、ちょっとトイレ行ってくるね。ブチャラティが戻ってきたらそう伝えておいて」 「おい、ナマエ!」 ナランチャの呼び止める声も聞かずに、私は踵を返し、その場から立ち去った。後ろから二人の話し声が聞こえてくるのがわかったが、それを振り切るように、私は足早にトイレに向かう。 トイレの中に駆け込み、私は鏡の前に立ってみた。自分の顔を久しぶりにしっかりと見つめたような気がしたが、その顔は複雑に歪んでいた。 ――そうだ。私は今、何にショックを受けているのか。 ナランチャがあまり勉強が得意でないこと自体は、以前に少しだけ聞いていた。それと、フーゴは勉強ができるため、ナランチャに勉強を教えていることも、なんとなくではあるが知っていた。 でも、ナランチャが今勉強している内容が、小学校のものだったとは知らなかった。そういえば――前もナランチャは、小学二年生の算数のテキストを使って、フーゴから勉強を教わっていたことを思い出す。あの時はすぐに話題が逸れ、そんなことすっかり忘れてしまっていたけれど。 別に。そのこと自体は、別に良い。ナランチャたちはこの年齢でギャングである以上、普通の生活を送ってきたとも考えにくい。小学校に通っていなかった、なんてことはギャングにはよくあることなのだろう。それに、前も少し、彼は言っていたではないか。前にナランチャは、私と同じく浮浪児だったと。 だけど。 「隠されていた……ってことなのかな」 私がショックを受けているのは、そこなのだ。ナランチャは今まで、私と勉強の話をすることはなかった。 ナランチャと出会って、まだ一ヶ月も経っていないのだけれど。それでも、どこかで話す機会はあったはずなのに。 あの様子だったらきっと――私に隠れて勉強していたことも、あったのだろう。私に言うことなく、小学校の算数の勉強を。 「うーん……」 今までも、ナランチャと過ごしてきても――彼はあくまで普通の男の子だと、そう思うこともあった。 彼はあくまで、完璧なヒーローではないのだと。 それでも、これほどまでの衝撃を受けたのは、今回が初めてだった。 ナランチャがあまりに勉強ができないということ。何より、それを私に隠されていたということ。 彼は彼なりに、何か思うところがあっての言動なのかもしれないが――それでも、どこか悲しく思ってしまう。 勉強ができないならできないで、それで良い。 だけどそれを、ナランチャ自身の口から私に話してほしかった、隠してほしくなかったと思うことは――果たして、傲慢なことなのだろうか。 私が今持て余している、この複雑な感情をどう扱うべきか。私は少し考え込む。 そして、少しの間頭を抱えていた割には、私は簡単な結論を出した。 臆病な結論、と言っても良いかもしれない。自分の言いたいことを相手に伝えることのできない、そんな答え。 「うん、気にしない。大丈夫。ナランチャはいつだって、私のヒーローなんだから」 今、ここで、ナランチャたちに対する信頼心を揺るがせるわけにはいかない。私は気持ちを切り替えようと、自分の頬を軽く叩く。 でも、私はどうしても、どこかわだかまりのようなものを心に感じてしまう。 なんだか足が重い。そう思いながら私は、ナランチャたちのもとに戻ろうとした。 だけど――どうやら、心が重たくなっているときは、周りに目を向けられることが、どうしてもできなくなってしまうらしい。 私は、辺りに注意を向けることを忘れてしまっていた。今、私は絶対に、警戒を怠ってはいけないというのに。 自分の命が狙われているかもしれないということを、わかっていたはずだったのに―― 「おまえが、ナマエ・ミョウジ……か?」 え? と振り返ろうとする。確かに、後ろから見知らぬ声が聞こえたのだ。 「ジュリオを――我らが神を殺したのは、おまえか……?」 振り返った瞬間、腕を掴まれているということを認識した。 敵スタンドに何らかの攻撃を受けている。そう認識する間もなく、私の意識は遠のいていく。 どうして、何故、いつの間に。 そんなことを考える暇もなく、私の目の前は暗くなっていく。 「ナラン……チャ」 自分が一体、何を言っているのか。それすらわからないまま、私の視界は完全に暗転した。 何も感じなくなった。