1.失われた記憶

 気がついたら、 「はあ、はあ、はあ、はあ」  私は息を切らしていた。  そして私の目の前には、 「…………」  頭から鮮血を滴らせた男が倒れていた。    夕暮れという時間帯のせいで辺りは薄暗く、よく見ることはできない。だが、それでもわかることはある。その微動だにしない男が、息をしていないことくらいは。    ……えっ、ここどこ?  なんで私、こんなところにいるの?  なんで、人が倒れているの? なんで、死んでいるの?  ……殺したのは、誰?  ……殺したのは、私……?  混乱しつつそこまで考えたところで、思考がふと止まる。  ……私? …………私って?  私は、一体、誰? 私って、一体、何? 何者……?    暫く混乱。思考停止。頭が真っ白になり、何をどう考えていいか、どう行動を取るべきか、さっぱりわからない。 「!」  その時、ふと気がついた。血の気が引いていく。膝から崩れ落ち、暫し絶句する。  それでも、その時の私は多分、普通の人がこんな状況に陥った時よりは幾分か冷静でいられた。それはきっと、私が、私自身について、無意識のうちに、そして本能的に理解していたから。 「私、記憶喪失になっちゃってる……」  そう、理解してからの行動は早かった。とにかく、思い出せる限りのことを思い返そうとする。……まず、自分の名前は思い出すことができた。そして今自分が口に出した言葉は……イタリア語、だ。私は、日本人である……はず? なのに……。 「私の名前は、苗字名前、十七歳……」  自分に言い聞かせるように、ひとつひとつ口に出す。 「日本人……なのに、イタリア語を話している……」  少しでも多くのことを、思い出せないか、と。 「ここは、きっと、イタリア……、かな……?」  辺りを見回しても目の前に鏡となるものはなく(当然見覚えのない景色だ)、自分の顔すら思い出すことができないというのに。 「あと、あとは……。あとは…………。……もう、思い出せない……」  そこまで整理すると、もう黙り込むしかない。目の前に倒れている――自分が手にかけたのであろうか――男のことも、全く思い出せない。何も。  自分の中に何も無い恐怖感。何も感じられない。今有るのは、眼前に広がる『男の死体』だけ……。  そんな時――   「――ヒッ」  少し遠くで息を呑む音が聞こえた。バッと振り向くと女が震え、立ち竦んでいた。どうやらこの現場を見られたらしい。それに気づいた私は、どうしよう、と考える前に、ほぼ無意識的に、背中の後ろあたりから―――『もうひとりの私』を『発現させた』。  自分でも訳が分からず、思わず呆気に取られる。すると、影は私に背を向け、その女に向かっていった。影は私と同じくらいの身長、体型。女は影に目もくれない。ただ、死体を凝視している。もしかすると影が見えていないのかもしれないな、とただぼんやり思った。  そんなことを思っているうちに、影は空中に浮遊して移動した。多分、私が走るより明らかに早い。  女は恐怖心からか呆気に囚われているのか、体を動かすことが出来ていない。手だけはポケットに突っ込み、携帯電話を取り出そうとしているように見える。  『もうひとりの私』が、体を動かせないその人を殴るのは容易いことであった。無意識下ではあるが、殴れ、と命じたと思ったら既に殴るという行動は終わっていたようである。 「クハァッ!」  何が何だかわからない、といわんばかりに呻くその人。その後すぐ気を失ったらしく、ピクリともしなくなった。  そして私には、影が女を殴った瞬間、――その人が何を考えていたか、手に取るように理解できていた。   『死体!?』『この女が、犯人?』『警察に通報しなくちゃ』『怖い』『動けない』『死にたくない』『頭真っ白』『帰りたい』『お腹空いた』『気分悪い』   「なるほど、わかった」  そして、私は周りをサッと見る。ここは橋の上。橋の下は激流。運がいい。ツイてる。  私は足元にあった死体を急いで川の下に蹴っ飛ばす。思ったより重く足がジンとなったが、構わず『もうひとりの私』に命令を下した。 「……その女の記憶を、少し消して」  すると影は頷き、『死体!?』『この女が、犯人?』『警察に通報しなくちゃ』という題名が書かれた白い箱のようなものを、――その人の頭からガッッ! と引っ張り出した。そして、『もうひとりの私』はそれにかぶりつき、跡形もなく食べ尽くす。  これであの人はもう、私のことはわからないはず。今は気を失って倒れているので、その隙に私は逃げ出した。――女が目を覚ませば、私、そして死体のことについての記憶はもう、跡形も残っていないだろう。  そして女はまもなく動き始め、普段通りに過ごすはず。死体を見た恐怖心は残るかもしれないけれど、残るのは恐怖心だけ。肝心の死体のことは思い出せず、きっとじきに消えていく。これで、ひとまず安心、といったところか。   「……さて。あんたは、一体何なの?『もうひとりの私』」  危機も過ぎ去り冷静になったところで話しかける。何も記憶を持たない私がどうして、……『本能』だけでこんな芸当をできたのか?  全てはそう、『もうひとりの私』が知っているはず。無意識的に、本能的に影が何を出来るかはわかった。――『彼女』が殴った人間が、現在何を考えているかを読み取り、必要に応じてそれに関する記憶を奪うことができる――  人の形をとってはいるが、どこかロボットのようで、それでいて文字通り『影』のような印象を受ける。 『カガミヲ見テクダサイ』 「!?」  言葉を発した。何か不気味な印象だ。これが『もうひとりの私』……? というか何故、……私はこいつを、『もうひとりの私』だと思ったのだろう? 『イイカラ、ハヤク』  そんなこと言われても鏡なんて……、と不平を垂らしながら、少し適当に走ってみた。街がある! 鏡なんて探すのは面倒だし、店のショーウィンドウのガラスを見た。反射して、見えた自分の姿は。 「!」  そこにあった私の姿、思い出せなかった私の顔。それは、目の前にいる『もうひとりの私』とソックリであった。   「本当に……『もうひとりの私』ってところ? ……生気も感じられないし、見た目もロボットみたいだけど……。あなた、いったい、何?」  地鳴りが鳴るような緊張感。目の前にあった男の死体。倒し、記憶を一部奪った女の姿。何も思い出せない恐怖感。『もうひとりの私』。短いながら私自身の全ての『記憶』が、脳内を駆け巡る。 『私ハ、アナタデス! 〝名前〟』  何なのだろう、これは。これは何? 私は誰? なんなの? あなたは、何? 誰? 「あなたは何? 私は誰? ねえ、私は、どうしたらいいのかな」  思わず『もうひとりの私』に縋ると私に、『彼女』はこう言った。 『アナタハ、私デス! デスガ以前、アナタハ私をコウ呼ンデイマシタ。「イン・シンク」ト……!』  私はこう考えた。どうやら私が記憶を取り戻す鍵は、『イン・シンク』にあるらしい。『イン・シンク』は私の以前の姿を、知っているらしいから。  やれやれ、これからどうしたものか。手がかりが見つかったとはいえ、ここはどこ、私は誰、状況に以前変わりはないのである。 「教えて『イン・シンク』。私がどうして記憶を失ったか。そして、私はどうすればいいのかを」  そう言うと、影は声をあげた。 『教エルコトハデキマセン。アナタハ私。私ハアナタ。アナタガ何ヲ思ッテコウナッタカハ知ッテイマス。ソレ故、教エラレマセン。教エラレマセン。教エラレマセン……』  思わず、落胆した。てんで、頼りにならない情報である。私は、彼女に期待した分だけのため息を吐き出した。 「はあ。……もういい。戻って」  そう言うと『イン・シンク』は感情のない顔に少しだけ悲しげな目を表すと、どこかへ消えていった。  もうひとりの私、『イン・シンク』もいなくなり、死んだ男もいなくなり、私を見た女もいなくなった。私は完全にひとりぼっちだった。そうしてため息をついたところで、路地裏の隅に座り考え込む。  『イン・シンク』を使いこなせず、誤って自分の記憶を消してしまった……、と考えるのが自然だろうか?   もしかしたら、何回も誤って自分の記憶を消してしまい無限ループに陥っているのかもしれない、そう考えると頭痛が起きた。  それにしてもお腹がすいた。眠たい。寒い。……本当に、これからどうしたものだろう?