明るくも暗くもない、温くも寒くもない場所に、私はいた。 自分が何者なのか、何を考えているのか、そもそも何かを考えられているのか。虚無のような空間に、私は存在し続ける。 もしかしてこのまま、永遠にこの場を漂い続けるのだろうか。 私の人生は、とっくの昔に終わっていたはずなのに。 「ナマエ」 永遠に続くかと思われた、何もない空間に――突如、声が響いた。 ずっと聞きたかったと願っていた、その声が。 「わたしの血によって蘇れ……ナマエ」 ここはどこで、私は一体何者なのか。聞こえてくるその声は、一体誰のものなのか。 温いような冷たいような心地を感じながら、私はそっと、目を開いた。 「…………」 目を開く。何年ぶりだろう。今まで何をしていたのか、一瞬で忘れてしまった。 辺りを見回す。館の中。私はこの館を知っている。ずっとここに住んでいた、そのはずだ。 ならば、目の前にいる人は誰だろう。人間離れした、全てを超越したような雰囲気。金色に輝く髪。その鋭い瞳が私を射抜いて、思わず息を呑む。 「ナマエ」 その心地よい低い音が、その名を呼んだとき――目が開けたような感覚がした。 私はその名前を知っている。 私はこの人の名前を知っている。 私が誰で、この人が誰なのか。 ――私は確かに、知っているはずだ。 「……ディオ、さん?」 一体、何年ぶりにその名を呼んだのだろう。分からない。分からないことだらけだ。だが、目の前の男がニヤリと笑ったことだけは分かった。 口元から、鋭い牙が覗いた。 何も分からない。状況も判断できない。だが、私が何のために生きていたのかは、思い出せた。 私はずっと、この人のことを待ち続けていた。この人のことを待つために、生き続けていた。だって、だって私は―― 「ナマエ。おまえは、何者だ?」 「わたし……私は、使用人です。そのために、生きてきました」 声が掠れる。だが、その言葉はごく自然に私の口から飛び出した。ずっと前から、私はそんな生き方をしていたから。それ以外の生き方なんて、したことがなかったから。 「フム。では――『君の主人は、誰だ?』」 懐かしい問いだ。その問いに私がどう答えるべきかなんて、ずっと前から決まっていた。 「ディオさんです。私の主人は。私にとっての、たった一人の主人です、ディオさん」 そう。彼は、私の主人。 彼を二度とひとりにしないと、そう誓った主人だ。それ以上のものなんてあるはずがない、そのはずだ。 その言葉を答えると、男は上機嫌そうに目を細めた。そして手を伸ばし、私の髪をそっと撫でた。 この人に触れられたことは初めてだなと、ぼんやりそう思った。 「ではナマエ、出発しようじゃあないか」 「どこへ、でしょうか」 まだ、上手く状況を飲み込めない。私がこの人に仕える使用人ということしか、私には分からないのに、彼は、ディオさんはこんなことを言う。 「エジプトの、カイロへ。……今のわたしの拠点は、そこなのだ」 突如その国の名前を出され、思わず面食らう。行ったこともない、遠い国だ。 「ですが、館の掃除をしなければ。なんだか、汚れています」 館の掃除。紅茶を淹れること。彼のことを、待ち続けること。それだけが私の中にあったことを、確かに思い出す。それだけが私の生きる意味で、私の中に刻みつけられていることであった。 「もう、この館の掃除は必要ない。君はわたしに付いてくるだけでいいんだ。使用人は、主人の命に従うものだろう?」 「……そう、ですね」 私はぼうっとしながら頷く。なんだか頭が働かない。私は、私は、何をしていたんだっけ。 私が動けていない間に、彼は私を抱えて移動し始めた。彼の腕の中、私はディオさんの顔を見上げる。 美しい顔。見慣れた表情。なのになんだか遠い気がするのは何故だろう。私の全然知らない人のような、そんな感覚がする。 ちらりと窓の外に目を向ける。夜だなと、ただそう思った。 「ん……」 ここはどこだろう。また、少しの間眠ってしまっていたようだった。 「起きたか? ナマエ」 「ディオ、さん……私、どうして」 何故、私は彼の腕の中にいるのだろう。シーツにくるまっている状態で寝そべりながら、抱き留められている。柔らかいクッションが敷かれているので身体は痛くないが、いまいち状況が読めない。 目を凝らしてみても、暗闇しか見えない。少し手を伸ばしてみる。箱の中のような、狭い空間。だが時折、揺られているような感覚もある。……何か、乗り物に乗っている? 「心配するな、貧血のようなものだ。血が足りていないのだろう。もう少し待てば、おまえにも食糧を分けてやる」 「……? それって、どういう」 そういえば、空腹感がある。喉が渇いているような。なのに――この感覚はなんだ? 奇妙な飢えだ。何か食べ物を食べたいという気持ちが全く沸かなくて、その代わりに―― 「ナマエ。少し、昔話をしてやろう。目が覚めたばかりで、おまえには状況が分かっていないのだろう?」 「状況?」 説明してくれるならありがたい。私には今、何が起きているのかさっぱり分からないのだ。 「ここは、おおよそ百年後の世界だ。あれからおまえは死に、そしてこのわたしの血で蘇ったのだよ。ナマエ、君は、このDIOの血によって吸血鬼となったのだ」 私は主人の言葉を、黙って聞いていた。 ここは、約百年後の世界。一九八七年十一月。私がディオさんと共にあり、そして別れた一八八九年は、遠い昔となってしまった。 そうだ、思い出した。ディオさんがいなくなってから私は、それでも彼のことを待ち続けていた。私が死ぬまで、ずっと。だけど、私がどれくらい待ち続けていたのか、つまり私が何年生き続けていたのかは、よく覚えていない。ディオさんを見送ってからの記憶が、やけに曖昧なのだ。あまり長い年月ではなかったような気がするのだが、実際よりも短く感じているような気もする。 「このDIOは、あの海底から引き上げられ、およそ百年ぶりにこの地上に姿を現した。あれからもう、三年経っている。……長い間、待たせてしまったな」 「……なるべく早く帰ってくるって、言っていたのに。私が死ぬまで、あなたは帰ってこなかった」 思わず零れたその言葉は、私の本音なのだろうか。 ディオさんは僅かに口角を上げた。 「だが、こうしてまた、わたしはナマエの元へ姿を現しただろう? おまえも言っていたじゃあないか――『どれほど時間がかかろうと、待ち続ける』と」 私は黙って、彼の話を聞く。――確かにそう言った。それがまさか、百年先の話になるとは、思っていなかったけれど。 「ナマエ。おまえの死体は、館の近くに葬られていた。その墓を、わたしは暴いた」 あの町の住人たちが、孤独に死んでいた私のことを葬ってくれたのだろうか。ディオさんを見送ってからの記憶が曖昧だが――私は何年、ディオさんのことを待ち続けていたのだろう。 「……わたしの血で蘇った者は、若返りはしないはずだ。石仮面を使ったときとは違ってな。だから――ナマエ。おまえはさほど長い間生きなかったのだろう。せいぜい、二年から三年というところか?」 「私の顔は、昔と変わっていないのですか?」 目覚めてから鏡を見ていないので分からない。私は、一体どんな顔をしているのか。 「……ああ、変わっていないよ、ナマエ。おまえはいつでも、変わらない」 見た目だけの意味ではないような気がした。だが、口を挟めないような雰囲気があって、私は結局、何も言えなかった。 「ディオさん、あなたは……何故私を、人ならざる者にしたのですか? 人ならざる者として、生き返らせたのですか?」 何を言おうか迷った挙句、私の口から出てきた言葉は、そんな言葉だった。 私は人間として、生涯を彼に仕えるつもりだった。それを誓った。そうだったはずだ。 人間をやめてまで、彼に永遠に仕えるつもりはなかった。そんなものはただの下僕だと、その時の私には受け入れられないものだったから。 ……今は、どうだろう。ディオさんがいなくなってからの私は、何か大事なことに気がついていたような、そんな気もするのだが―― 「ナマエ、おまえを蘇らせるのならば、人間のまま生き返らせることはできないであろう。そんな方法は、この世のどこにもない」 「……それは、確かにそうですけど」 「おまえは人間としての一生を、わたしに仕えることを誓った。だからナマエ、おまえは生涯、わたしのことを待ち続けた。ナマエがわたしを待たずにあの館を出て行ったのなら、わたしはおまえを蘇らせることはなかったが――実際、おまえは使用人としての生を、全うしていたからな」 ならば。主人と使用人としての、私たちの契約は切れてしまっているのではないか。私は既に、人間としての生涯を終えてしまっているのだから。 「だから蘇らせた。おまえはわたしの、『忠実なる使用人』のまま、死んでいったからだ」 ……要するに、忠実なる使用人が必要だから蘇らせたということだろうか? ディオさんの言葉の真意は、相変わらずよくわからない。どちらにせよ、私と彼の主人と使用人としての契約は、私が死んだ時点で無効になっているはずだ。 それなのに私は、この人の元から離れようと思えない。 やっぱり私は、彼のことをひとりにはしたくなかった。その気持ちは、はっきり思い出せた。 何もかもが、変わってしまっていても。それだけは変わらなかった。 「ジョナサン・ジョースターは、もういない」 「……ジョジョ、さん」 懐かしい名前だ。死んでしまった、私が死に関与してしまった、かつての主人。 その名前を呼びながら、私はディオさんのことを見上げる。 「あなたの身体は、ジョジョさんのものなのですね」 ぽつり、と呟いた。私が最期に見たディオさんの姿は、確かに首だけの姿だった。それなのに、今の彼に首から下があるということは、つまりそういうことだ。私のことを抱き留めている腕は――ジョジョさんのものだ。 「ジョナサンの身体を奪う際、船が爆発してしまった。シェルターに身を隠したが、その分、わたしは百年を海底で過ごす羽目になってしまったのだ」 呟くように彼は言った。ディオさんは一体、何を思っているのだろう。 ここは、百年後の世界。私にも彼にも空白があって、だけど私たちは、百年後の世界で再会した。 それが良かったのか悪かったのかは、よく分からない。正直なところ、頭が混乱している。私は脳内を整理しようとして、再び目を閉じた。 百年後の世界。私はあれから、数年程度で死んでしまった。 ディオさんは宣言通り、ジョジョさんの身体を乗っ取って、百年の月日を経て、海底から再び地上に降り立った。 そしてディオさんは私を迎えに来て、私のことを人ならざる者にした―― 目を瞑り、ぼんやりと彼の言葉を脳内で反芻する。 私はこれから、どうやって生きていくことになるのだろう。私にはもうディオさんしかいない。失ったと思っていたディオさんが戻ってきてくれたことに、どうやら喜びは感じているらしい。自分のことなのに、他人事のようにそう思う。 とはいえ、人ならざる者になってまで、使用人として生きるべきか。それは、百年前の私が望んでいたものではなかったはずだが。……それとも。 分からない。黙って目を瞑っていると、睡魔が私を襲う。もう何も考えたくない。百年越しに、穏やかな眠りにつきたい。 ゆらゆらと揺れる世界の中で、私はただ、ディオさんに抱きしめられるような感覚を感じていた。 温かくも冷たくもないなと、そう思った。