20.沈み沈む

 ディオさんは何故、私を連れて行ってくれなかったのだろう。船の爆発を新聞記事で知ってから、私はぼんやり考える。  否。私は最初から覚悟していたはずだ。私はあくまで使用人、主人の帰りを待つ存在。そんなことは分かっていたはずなのに、どうしても考えてしまう。  私がいても、役立たずだからか。確かにあの船に私が連れていかれたとして、私は船の中で何もできないのだが。  ――それでも。こんな想いになるくらいなら。私も一緒に、海の中に沈んでしまいたいくらいだった。  恋しい。今更のように、そう思った。 「……邪魔するぜ、ナマエの嬢ちゃん」  ある日。独りで館の掃除をしていると、来訪者があった。  この館を訪れる人なんて、数えるほどしかいない。まして、かつての主人であるジョジョさんが死んでしまった今では尚更そうだ。 「スピードワゴン、さん」  凄まじい形相で私を見下ろすスピードワゴンさんの表情を見ながらも、私は黙って、彼を迎え入れることしかできなかった。 「あんた……知ってたな? ディオの野郎が生きていたことを」  椅子に腰掛けたスピードワゴンさんに紅茶を淹れて、そっと差し出す。だが彼は紅茶に手を付けようとはせず、ただ私にこう問いかけた。 「…………」  何も答えないというのも、しらばっくれるというのも、選択肢の一つだったのかもしれない。  だけど。 「そう、ですね。知っていました。この館で数ヶ月、私はディオさんと共に過ごしました」  私は答えた。声が震えそうになるが、なんとか毅然と言おうとする。 「知っていながら、ジョジョさんとスピードワゴンさんには、黙っていたのです」  私はあくまで、ディオさんの使用人なのだ。  主人の罪を詰られるのも、私の仕事の一つだろう。そう思ったから。 「オイ……なんで黙ってたんだ!? あんたが教えてくれさえすればよ、ジョースターさんは……!」  スピードワゴンさんは私の方へ身を乗り出す。それを私は、他人事のように見ていた。 「……その怒りは、最もなのでしょうね」  だが、私への怒りというよりも、ジョジョさんを失ったことへの悲しみが感じられる、悲痛な叫びであった。かつての主人とその妻に、友人であるスピードワゴンさんの幸せが絶たれてしまったことに、何も思うことがないと言えば嘘になる。  だけど。私には、胸を痛める資格もないのだろう。そう思いながら、私は静かに口を開いた。 「……スピードワゴンさん。ジョジョさんとエリナさんの結婚と、船での旅行のことをディオさんに教えたのも、私なんですよ」  スピードワゴンさんは顔色を変えた。怒りと悲しみの色から、絶望のような色になっていく。  それでも私は、精一杯微笑んで対応するしかなかった。私がディオさんに仕えることになってから、私は、ディオさんの幸せだけを願っていた。そうするしかなかったから。 「ディオさんに仕えることを、私は心に決めたんです。だから、彼のことは裏切れなかった」  人ならざる者になってしまった彼の使用人となり、彼の食糧となって殺されていった罪のない人間たちを、幾千と見てきた。悪人と呼ばれる人に屍生人としての力を与え、この町が消え失せようとしている様も。  ジョジョさんの命、彼や彼の大切な人の幸せがなくなると分かっていながら、それでも私は、ディオさんに仕え続けた。 「私は……ディオさんの使用人なんです」  ジョジョさんのことも、スピードワゴンさんのことも。世界のことも、私は裏切った。私が裏切らなかったのは、使用人としてディオさんに仕えるという、ただ一つの関係だけであった。 「おれは……おれは、あんたをぶん殴ってやりてえ。だけど、ジョースターさんはそんなことを望まないと、このスピードワゴンは知っている。ジョースターさんはあんたのような女にだって、きっと手を上げることはなかっただろうよ……かつての使用人だったあんたの幸せだって、あの人は望んでいた」  ギリ、と歯を食いしばるような表情を見せる。無念さを滲ませながら、それでもスピードワゴンさんは、ぽつりと呟いた。 「本物の紳士だったよ、あの人は」  そうですね、とは言えなかった。ジョジョさんは、あの館にいた頃から、ずっと優しい人だった。  それでも今の私に、ジョジョさんを語る資格はないのだろうけど。 「……あんたはこれからどうするんだ? 嬢ちゃん」  ひとしきりの沈黙の後で、スピードワゴンさんはおもむろに口を開く。その言葉は、少々意外なものであった。 「……私の行く末を、聞くのですね」  私のことが憎いはずのスピードワゴンさんが、私のことを案じるようなことを言うなんて。その瞳には強い感情が滲んでいるが、しかし――それでも私のことを気にするようなことを言うなんて。  スピードワゴンさんは何も言わなかった。だから私は、思うところを率直に告げた。 「私のやることは変わりません。この館を守ること。彼に仕え続けること。それが私の、使用人としての仕事です」 「……まさか、またディオの野郎が戻ってきたりしてねえだろうな?」  訝るような口ぶりだが、本気で疑っている風ではない。私がディオさんを匿っていたことを知っていれば、その疑いは当然なのだろうけど。  でも、ディオさんは私の元に戻ってきていない。あの人は何度も何度も、私の元に帰ってきてくれたのに。  いつか、戻ってきてくれればいい。彼がひとりきりにならないように。そう思っているのは、この世できっと、私だけなのだろうけど。 「いいえ……」  私はそれだけ答えた。ディオさんは戻ってきていないと、戻ってきてほしいと、そんな気持ちだけ込めながら。  私の答えを聞いたスピードワゴンさんは、そっとため息をついた。その表情には、疲れが見え隠れしていた。 「あんたのその顔を見れば分かるよ。ディオの野郎が、あんたの元に戻ってきていないということはな。……あんたがディオの野郎に戻ってきてほしいと、そう思っていることも。それでも強く問い詰められないあたり、ジョースターさんの甘ちゃんが移っちまったのかもなあ……」  そして、スピードワゴンさんは立ち上がる。 「聞きたかったのはそんだけだ。それじゃあな。……おれはあんたを許せないが、あんたがこの館から出る道を選びたいと言うのなら連絡してくれ。……ジョースターさんはきっと、そう望んでいる」  そして、スピードワゴンさんは去った。  この館から生涯出るつもりは一切無い、私を独り残しながら。  誰もいなくなった館に、冷めてしまった紅茶。もうスピードワゴンさんと会う日は、来ないのかもしれない。  もうスピードワゴンさんは私の淹れた紅茶を口にすることはないのだろうなと、漠然と感じる。  否――私の淹れた紅茶が私以外の人間の口に入ることは、もうないのだろうと、ただそう思った。  ディオさんが、いつか帰ってきてくれるまでは。  帰ってこないかもしれないディオさんを、私は生涯待ち続けるのだろう。  私の一生は、永遠ではないけれど。