16.揺れ動き

「ところで、ナマエ。おれがどうしておまえのことを連れてきたのか。気にはならないか?」 「……えっ?」  唐突に発せられたその言葉に、思わず櫛を入れる手を止めてしまった。その言葉はそれだけ、私にとっての衝撃だった。  それに対し彼は特に反応せず、むしろ首だけのまま私の方に振り返ってみせる。  ……どうやったのだろう? とは気になったものの、もう櫛を入れなくていいということだろうかと、私はとりあえず櫛を置いた。 「それは……ずっと、気になっていました」  震える声で、呟くように言う。  そうだ。私はずっと、それを気にしていた。  ――どうしてあなたは、私を殺さなかったのですか。どうしてあなたは、私のことを連れてきたのですか。  ずっと聞きたかった。聞けなかった。だからあなたのことが、分からなかった。  ――だからあなたのことが、ずっと怖かった。  ディオさんはフー、と息を吐いた。本当に、彼は私に真実を教えてくれるのだろうか。  彼の言葉を、私は必死に受け止めようとした。心が、動揺に震えていた。 「このおれは、ずっと優等生の仮面を被って生きてきた。七年もだ。ジョースター邸に来たばかりの頃は、ジョジョのやつを虐げていたこともあったが……それ以外の人間に対しては、ずっと、意識して、優しく振舞ったんだ。吐き気を感じながらも、ずっとな」  当初はジョジョさんを直接虐げることもあったということは初耳だったので驚いたが、それ以外は知った通りだった。ディオさんがあの火事の時に本性を明かした時点で、分かっていたことだ。 「なのに、ナマエ。おまえだけが、おれのことを恐怖の瞳で見つめ続けた。おれはおまえに対しても、優しく振舞ってやっていたというのに。気に入らなかった――このおれの演技を、たかが小娘だけが気づいていたというのがな」  ――ナマエ。おまえは、おれが怖いか?  ――その瞳、気に入らないが……おまえの恐怖は正しい。  あの時のことを思い出した。港町に連れられ、酒場で酔っ払っていたディオさんのときのことを。やはりあの時のディオさんは、本心を語っていたのだろう。  ジョースター邸にいた頃の私がディオさんに感じていた恐怖に、理由はない。だが、私の恐怖は正しくて、そしてディオさんはその恐怖を懸念していたのだろう。 「だから、おれはおまえに特段優しく振舞ってやった。ナマエ、おまえの警戒を解こうとしたわけだ。おまえのくだらん猜疑心が、このディオの計画の邪魔になってはならないからな。……今となっては、無駄だったようだがな」  ディオさんがジョースター卿を殺そうとしていたことを思い出す。実際私は彼に恐怖を感じていただけであって、彼の計画を止めるに至らなかった。私がディオさんへの恐怖を忘れた日も、終ぞなかった。なるほど確かに、無駄な話だ。  ……だが、無駄であると分かっていても、少し考えてしまう。ジョースター卿が死んでしまう前は、私の雇い主はあくまでジョースター卿であった。  私のディオさんへの恐怖が、ジョースター卿毒殺計画を暴いていたとしたら。別の道があったのかもしれない、なんて思ってしまった。  それでも。今の私が、ディオさんに仕えたいと本気で思っていることは変わらなかったけれど。 「それでは。何故ディオさんは、私のことを殺さなかったのでしょう」  ジョースター家にいた頃のディオさんの言動の意味は分かった。私を特別気にかけるような素振りを見せていた意味を。それは、私が特別というわけではないようだったけど、むしろ納得できる。  だが、やっぱり分からない。彼が私を殺さなかったこと。あの館のほとんどの人間が死んだのに、私だけが無傷で生き残った。それは一体?  この館に連れ去られたとき、ディオさんは使用人としての私のことを、何らかの形で必要としているのではないかと思っていた。だからわざわざ、私のことを殺さず、私のことを連れてきて、使用人としての契約を結ぼうとしたのではないかと。  自惚れかもしれないと、そのときも思っていた。それでもいいから、私は彼をひとりになんてさせないという選択肢をとったわけだ。 「何故ディオさんは、私のことを連れてきて、使用人として仕えさせようとしたのでしょう。それが分かりません」  そして、実際自惚れだったのだろうと、今では思っている。  ディオさんは真に私を必要としているわけではなかったのだろうと、この一ヶ月程度の暮らしでも分かってしまう。私の仕事は、他の誰でもできるような仕事ばかりだったから。  ならば、何故彼は私のことをわざわざ連れてきたのか。それに答えが出ないから、私は彼の恐怖を真になくすことはできないわけだった。  ディオさんはしばらく無表情で黙り込んでいた。  少しの沈黙。それから、彼は表情を変えずに、私のことを試すかのように囁いた。 「……思い通りにならないおまえの心を、おれの方に向けたかった。おれの思い通りに、おまえを手に入れたかった」  思わず彼の顔を見つめる。ディオさんの表情は真剣に見えたが、俄には信じ難い。  彼はまた、私を自惚れさせようとでもしているのだろうか? 信じられない思いで見つめていると、ディオさんはニヤリと笑った。 「そう言ったら、ナマエは納得するのか?」 「……はぐらかさないでくださいよ」  やっぱりディオさんの気持ちは私には分からない。誤魔化された気がする。そして彼は、本心を全て言うことはないのだろうと、漠然と思った。  ――ただ。そうやって誤魔化された方が、むしろ安心できると、そうも思ってしまった。  だって。本気で口説かれているとしたら、逆に怖い。そんなはずがないと思った方が、むしろいい。  だって私はあくまで使用人で、彼は主人だ。そうであってほしいと、自分にそう言い聞かせた。 「フン、ならひとつ、素直な気持ちを教えておこう。ナマエ、おれはおまえの淹れる紅茶を、特別美味いと思っていたわけではない。使用人としての腕は悪くはないが、洗練されているとは言い難いと、昔から思っていた」 「……そう、ですか」  薄々そうではないかとは思っていたけど。ジョースター邸にいた頃も本気で褒められているとは思えなかったし、この館に来てからも、彼が私の淹れる紅茶を本心で気に入っているとは思っていなかった。  だが、本心で気に入っていると言われた方が、むしろ信じられなかったかもしれない。ディオさんはその猜疑心を見抜いた上で、私の納得する答えをあえて口にしているのだろうかと、ふと思った。 「だが。ナマエの淹れる紅茶の味は、ナマエにしか淹れられないのだろうなと、そうも思う」 「……それは、どういう」  眉を顰めた私の言葉を遮るように、彼は呟いた。 「早く、肉体を得なくてはな。このディオに相応しい肉体を。そうでないと、ナマエの淹れる紅茶を飲むこともできない」 「それは、確かに飲めないでしょうが」  首から下がない状態で紅茶を飲んだらどうなるのだろう。彼の身体の仕組みがどうなっているのかなんて、そんなことが気になってしまった。  首だけなのに、どうやって人のエネルギーを得るのだろう。エネルギーを得ないと生きていけないのではないかとも思うのだが。首から吸血する? ……どうやって?  そうやって私が首を傾げていると、首だけになっているディオさんは私の名を呼んだ。 「ナマエ」 「……はい」  私が静かに頷くと、首だけになった主人は、とっくに人間でなくなった主人は、こんなことを言い出した。 「おまえは、主人と使用人という関係に拘っているのだろうが、このディオはもう人間ではない。もうおれは、人間の貴族なんてものではないのだ。だからおまえも、使用人という立場に拘る必要はない」  唐突とも言えるその言葉に、怪訝な顔になってしまった。  だって私は、あくまで使用人で、それ以上でもそれ以下でもない。……それ以外のことは、あってはならないからだ。 「と、言うと?」 「その続きは、おれがあの男の肉体を奪ったら教えてやろう。この身体では、できることもできない」  確かに、彼のその首だけの体ではできることも少ないだろうが。ジョジョさんの肉体を得て、一体彼は何をしたいと言うのだろう。  ジョジョさんの優しい笑みが、ふっと脳裏に過ぎった。 「だからナマエ。その日までは、館の掃除を頼んだぞ。紅茶の腕を、落とすこともないようにな」  彼が何を言いたいのか分からない。  否、分からない振りをしているだけなのかもしれないけど。  それでも私は頭を垂れ、そして言った。 「元より、そのつもりです。だって、私の雇用条件は、それだけですもんね」  何があっても、私は彼の使用人でありたいと。ただ、そう思っていたのだから。