ワンチェンという名の東洋人の手の中に、ディオさんはいた。首から下を失った姿で、それでも、彼は私のことを鋭く見ていた。 「おい、ワンチェン。ナマエと二人で話をしたい。席を外せ」 「は、はいディオ様」 ディオさんはテーブルの上に置かれ、ワンチェンは不服そうにこの場を去った。 そして、静寂。今この場にいるのは、私と、そしてディオさんだけだった。 「……ディオさん」 何をどう言えばいいのか分からなくて、私はただ、彼の名を呼ぶ。 どういう形であれ、ディオさんは死んでいなかった。その予感は本当であった。その事実に、どっと身体の力が抜けていった気がした。 安心した。私の主人が死ななかったことに。そして、喜びを感じた。ディオさんが、生きていたことに。それは使用人が主人を案じる気持ちであり、それと同時に、私は―― 「無事だったのですね、ディオさん」 自らの気持ちを押さえ付けるように言葉を絞り出す。私は使用人として主人の身を案じている。それ以上の感情は、私と彼の間に必要ないから。 「……当然だ。このディオは、永遠を生きる存在なのだからな」 そう言いつつも、彼は苦々しげだ。それも当たり前の話だろう、自分の肉体を失ったのだから。 ジョジョさんは、ディオさんを倒せていなかった。それでも、ディオさんは首から下を失うことにはなった。 ディオさんを倒したと信じ、帰っていったジョジョさんたち。首から下を失いつつも、私の前に現れた、ディオさん。 今の私の、たったひとりの主人。 ならば、私は何をすればいい。私の雇用条件は館の掃除とディオさんに紅茶を淹れることだけだが、首から下を失くしたディオさんは紅茶を飲むことができるのだろうか? ……なんて調子外れなことを考えていると、ディオさんは、あくまでいつもと同じ様子で私に命じた。 「ナマエ、おれの髪に櫛を入れろ。……この身体では、乱れた髪を整わせることもままならない」 「は、はい」 そう言われたので、私は慌てて櫛を探しに行く。どこにあっただろうか、と少々手間取ったが、そんなに遠い場所にはなかったので、すぐに持ってくることができた。 ……と、櫛を手に彼の元に戻ってきたところで、私は戸惑った。 ディオさんの髪に触れる、なんて。今までやったこともない。ジョースター邸にいた頃から彼は、私に怪我の手当すらさせてくれなかった。ディオさんに触れたことは今まで一度もなかったのだと、私は今になって初めて気がついた。 命じられたことなのだから、その通りに従えばいい話なのに。私は、戸惑いを覚えている。私はこの人に触れていいのだろうかと、そう迷っている。 「何をしている? おれの髪に櫛を入れろと、そう言ったはずだが?」 その言葉を聞き、意を決した私は、彼の首が存在するテーブルに近づいた。そして恐る恐る、櫛を彼の髪に入れた。 さら、と美しい金髪に櫛が入る。梳く必要があるのだろうかと疑問に思うくらい、通りが良い。ちらりとディオさんの表情を窺ってみたが、気持ちよさそう、と形容しても良さそうに、落ち着いた調子で目を閉じている。左耳のほくろが三つ、はっきりと私の目に入る。 それがなんだか、変な感じだった。 奇妙な感覚だ。あのディオさんが、何度致命傷を受けても死ななかったような男が、私に恐怖を与え続けていた私の主人が、私の手の中にいる。吸血鬼という存在は頭部が存在しなくても生きていられるのかと、感心の念すらある。 どうしてこんなことになってしまったのか。私にはよく分からない。彼の首の下がなくなってしまうなど。そんな彼の首が、私の中にあるなどと。 今まで一度も触れられなかったディオさんに、触れているのだと。 「……ナマエ」 「なんでしょう?」 髪を梳かれながら、ディオさんは私の名を呼ぶ。ディオさんは目を瞑ったまま言葉を続けたが、それはどこか独り言のようにも聞こえた。 「おれはあの時、ジョジョに負けたと、そう認めざるを得ない。このディオを負かすなど……あの侮っていたジョジョに、おれは尊敬の念すら抱き始めている」 「…………」 この屋敷から去ったジョジョさんのことを思い出す。彼はディオさんのことを倒して、一体何を思ったのだろう。ディオさんがまだ死んでいないと知れば、またディオさんを倒しに来るのだろうか。 それは嫌だな、と思う。ジョジョさんにも死んでほしくないし、ディオさんにも死んでほしくないと、私は本気で思っているのだ。 ――本当なら、ずっとこのままでいい。私は首だけになったディオさんと共に暮らし、ジョジョさんはディオさんが生きていることを知らないまま、幸せに暮らす。そうであればいいと、私は思う。彼らがこれ以上、傷付くことがないように。 だけど。 運命は、この男は、それを許さない。 「ナマエ。おれは、あの男の肉体を奪うつもりでいる」 「!」 その言葉に思わず、ディオさんの首から下に目を向けた。彼は、他人の身体を自分のものにすることすらできるのか。 ……それはつまり、ジョジョさんを殺すと、宣言したということだ。 少しの沈黙。 二人のどちらにも死んでほしくないと、そう思っている。それでも、彼が戦いを願うのなら、私にできることはない。 以前からその覚悟は決めていた。二人が戦いを選ぶのなら、私は、ディオさんの無事だけを祈るのだと。二人共が死なない道を選ぶことは、できないのだから。 ディオさんの無事を願うことしか、私にはできない。 だって私の手の中にいるこの男が、今の私の、たった一人の主人。 そして、そして―― 「ナマエ。……おまえは今でも、おれが怖いか?」 沈黙を破ったのは、ディオさんだった。ディオさんの表情は窺わず、彼の髪を梳きながら私は答える。ディオさんのその声は、静かなものであった。 「……そう、ですね」 少し考える。私は今でも、ディオさんのことを怖がっている、それは確かだけれど。 「たとえあなたが恐ろしくても。今の私の主人は、雇い主は、あなただけです。ディオさん」 確かに私は、ディオさんのことが怖い。怖いけど。 それでも。今の私はディオさんのことを以前ほどは怖がっていないのかもしれないと、そう思った。 だって私は、彼が何を考えているのか分からないのが怖かった。 私に優しく振舞っているのに、私に一切心を許そうとしない彼が怖かった。 私の平穏な日常が彼によって崩されてしまうかもしれないと、漠然とした恐怖を感じていた。 今でも、ディオさんの本心は分からない。私を何故殺さなかったのか、何故この館に連れてきたのか、分からない。だからディオさんのことは、今でも怖いけど。 だけど。彼が本性を出して、私の安全も保証して。こうしてこの館で私は彼に仕え、今となっては、ディオさんは私の腕の中にいる。 今は、ディオさん自身のことよりも――ディオさんが、本当に私の元からいなくなってしまう日が来てしまう日が来てしまうことの方が、ずっと怖かった。 そして。 「――今となっては、恐れ以外の感情も、あなたに抱いているのかもしれませんね」 言うつもりのなかった本音を、零してしまった。私の中に封じ込めておくつもりだった、淡い気持ちを。 それが一体何かと問われたら、明確に答えることはできない。 ただ、今の私の中には、主人の幸せを願う使用人としての気持ちの他に、――主人と使用人の垣根を越えた何らかの感情があるのかもしれないと、漠然と思っていた。 「……フン」 私のこの言葉にディオさんが満足したかどうかは、分からなかった。ただ、小さく息を漏らすだけ。 金色の髪が、私の手の中で輝いた。 かつての主人だったジョジョさんの人生が絶たれてしまうことに、悲しみを感じないと言えば嘘になる。 だけど。今の私の主人は、ディオさんだけだった。 自ら仕える主人の幸せが、私の幸せ。私は、本気でそう思っている。