※8部吉良の元恋人と定助 ※震災を思わせる表現が少しだけあります 「……吉影?」 久しぶりにこの街に戻ってきて、駅前をふらふらと歩いていて。町並みを眺めていたら、懐かしい水兵帽が見えたので、思わず声をかけた。 彼が振り返る。だけど、その声に反応して振り返った男は、吉影では――私の昔の恋人では、なかった。その瞳が、不思議そうな色をして私を見つめる。 「あ……。ごめんなさい、人違いでした」 彼は、私や吉影よりもやや若い、二十歳前後の少年だった。勘違いしてしまったことが恥ずかしくて、すぐその場を立ち去ろうとする。 「待ってくれ」 踵を返して立ち去ろうとしたが、少年のその声に思わず立ち止まってしまった。 声は、吉影と違う。確かに違う。それなのに、彼に呼ばれているような気がしてしまうのは――一体、どうしてだろう。 「今……オレのこと、吉影と呼んだのか? 吉良吉影、と」 振り返り、少年の顔をもう一度見る。 やっぱり、違う。それなのに。 半分だけ吉影の姿が見えたような、そんな気がした。 「えっと、そうね。ごめんなさい。人違いだったみたい。とても、吉影に服が似ていたから……でも、顔は違う。手の形と、前歯の形も」 だけど、顔立ちは違うからこそ、似ているようにも思える。似ているを通り越して、そこに吉影がいるような。彼の瞳の奥に吉影がいるような、そんな気が。 「あんた……吉良吉影の、何なんだ?」 少年は眉を顰めながらこちらを見ている。 本来は、ここで律儀に答える必要はないのだろう。人違いだったと判明した時点で、さっさと立ち去るのが正解だ。いつもの私なら、きっとそうしていた。 それでも。私は答えたかった。吉影のことを思わせるこの少年と、少し話してみたくて。 「私の名前は苗字名前。吉影……吉良吉影とは、数年前まで付き合っていたの。あなた、吉影のことを知っているの?」 だから、答えた。少年は目を見開き、そして小さく息を呑む。そして彼は、呟くように話し始めた。 「……吉良吉影のことは、あまり知っていることはない。だが、吉良が死んだことは知っている」 「……死ん、だ」 その言葉を繰り返す。一瞬、その言葉を飲み込めなくて、思わず呆然としてしまった。 だが、無理もないのかもしれない、と考え直す。震災時に私はこの町にはいなかったが、この町は傷ついたと、そう聞いている。ならば彼も、震災に巻き込まれて死んでいたとしても、何ら不思議ではない。 ……私は、吉影の死を知らなかった。数年前に別れた恋人というものは、それだけ他人なのだと、そう思い知った。共通の友人という友人もいなかったから、尚更そうなのかもしれない。 それに。彼が死んだと聞いても、どういう感情になっていいか分からなった。悲しいという感情は、あまりなかった。 「……オレは、彼のことを知りたいと思っている」 ぽつりと言った彼の言葉に、私は顔を上げる。 「あなたが、吉影のことを?」 「話してくれないか。君の知っている、吉良吉影のことを」 少年の表情は真剣だった。その瞳に、思わず息を呑む。 話すべきか、それとも話さないべきだったのか。 それは分からない。でも私は、この少年と話したいと、そう思った。 「……そうね。あなたが知りたいと言うのなら」 だから私は、少しずつ話し始めた。死んでしまったという、生きていた頃の吉影を思い返しながら。 どこかぶっきらぼうな話し方をして、思い込みが激しく自惚れ屋なところもあったけれど、家族思いで優しい人だった。船医として優秀なのに、おかしなところもたくさんあって、だがそういうところも含めて愛おしかった。いつか家族を紹介すると、そう言ってくれた。 だけど。ある日、突然別れを告げられた。理由も言わずに。私は別れたくなかったけど、彼が「別れたい」と思うのなら、そう言う彼と付き合い続けることは無理なのだろうなと思い、そのまま別れた。彼の家族と私が会うことは、結局一度もなかった。 「……あなた、雰囲気はよく似ているわ。本人ではないはずなのに、吉影がそこにいるみたい」 吉影は死んだ。目の前の少年は、生きている。彼に似ていて似ていない、吉影の半身のような少年は。 少年は私の話を黙って聞いていた。 だけど――ついに。ひとつ、大事なことを教えてくれた。 「……オレの知っている吉良吉影について、全てを話すことはできない。でも、君に伝えなければならないことはある」 彼の知っている、私の知らなかった、吉良吉影のことを。 「吉良吉影は、病気の母親を治すために動いていた。詳しくは言えないが、かなり危険なことだ。……そのために君と別れたんだろう」 少年の言葉が事実であるという保証は、ここにはない。 だけど、彼の言葉はすとんと私の中に入ってきた。吉影は私を巻き込まないために私と別れたのだと、そういう予想が。 「おかしなところのある人だったけど……それでも。私は彼のこと、好きだった。本当に」 そうだ。好きだった。忘れかけていたけど。 吉影によく似た少年の言葉を聞いて――やっと、思い出せた。 吉影が好きだったという気持ち。 彼がいなくなって悲しいという気持ちを。 「そういえば、私ばかり話していて名前を聞いていなかったわね、ごめんなさい。……教えてくれる?」 「……定助。東方定助」 噛み締めるような言い方をする彼に、私は微笑んだ。 「定助くん……いい名前ね。ねえ、定助くん。……一度だけ、名前を呼んでくれないかしら。私の名前を」 吉影によく似た少年に、一度だけでいいから名前を呼んでほしくて。 だけど――少年の不思議そうな声色は、やっぱり吉影のものではなかった。 「えっと……名前ちゃん?」 ――名前。 そして、吉影の声を思い出す。 それはまるで、別れを告げられているようだった。 「……ふふ、ありがとう。あなたは、東方定助だわ。たとえ、あなたが何者であろうとも。私の知る吉良吉影は、もういないのね……」 私はそう独りごちる。 吉影はもう、この世にいない。 定助くんは何も言わなかった。何も言えなかったのかもしれない。 それでも彼は、私に手を伸ばしかけた。だけど――その手は止まってしまう。 その手は吉影のもののようで、やっぱり違うと、そう思った。 この子は、定助くんだ。東方定助くん。彼の人生の意味を決めるのは私ではない。きっと、定助くん自身。 「あなたを『知る』人のこと、大切にしてあげてね。私が、手放してしまったものだから」 最後の別れの言葉のつもりで、私は笑う。 定助くんは、しばらく迷っていたようだが――やがて、しっかりとした顔つきで頷いた。 彼は、吉影によく似ているけど、そうでない部分もある。それがきっと、東方定助なのだと。 定助くん自身の人生に、どうか幸福がありますように。私はそう、ひそかに祈った。
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