ツバメの学校

 窓際の席は、私の一番のお気に入りだ。  今みたいに、ふっと授業を聞く集中が切れて、発言する気も失せたときに空を見れば、一時的に学校の全てのしがらみから開放された気分になる。  人間関係に、勉強のこと。全てが全て最悪というわけではないし、もちろん楽しいこともたくさんある。だけど時折、どうにも投げ出したくなるのだ。  ――あ、ツバメ。  空を見ながら逃避していると、雲の浮かぶ青空に一羽の鳥が飛んでいるのが見えた。あの鳥は多分、ツバメだ。  なんとなく、それを眺めていると――そういえば、と私は今朝見た不思議な夢のことを思い出す。  夢の中で私は、何か飛ぶ鳥と入れ替わって、空を飛んでいた。そして――空高く舞い上がるツバメを、見送るのだ。あのツバメに着いていきたい、そう思ったときにツバメはどこかに飛んでいってしまったし、私は目覚めて布団の上だった。  自由なあのツバメが、少し羨ましかった。  今、空に見えるツバメを眺めながら、今朝の夢のツバメのことも思い出して、私は息を吐く。  あのツバメのように自由に空を飛んでいけたら、どれだけ良いだろう。どんよりした空の下で、あのツバメだけが、どうにも輝いて見えた。  そして、そのツバメが飛んでいるのを眺めていると――ふと、二年前のことを、急に思い出した。私が十五歳のときの、たった半年間のできごとを。  ――そういえば、あの少年は元気にしているのだろうか。  半年間だけ同じ学校に通っていた、同い年の少年――ナランチャ・ギルガのことをふと思い出し、私はどこか、切ない思いにかられる。  空の下では相変わらず、ツバメが高く飛び回っていた。  今からちょうど、二年前のこと。  突如として学校にやってきたナランチャ・ギルガという少年は、正直言って小学校の勉強すらままならなかった。おそらく、小学校にもまともに通わず、今になって初めて学校に来たようなものなのだろう。どうして急に学校に入ろうと思ったのかは、未だに疑問だが。  そしてそのナランチャ・ギルガは、決して周りに心を開こうとしなかった。周りに「おまえはバカだ」とバカにされると非常にキレた。彼はそのまま、孤立していったのだ。どこか、自分から孤立しているようにも見えた。  だけど私は、直感的に感じるものがあった――この少年にはきっと、何かキラリとしたものを持っている。周囲を決して信じようとはしないけれど、彼は何か、絶対的に信じているものが、きっとある。希望を持たないように見えて、持っている希望が何か、きっとある―― 「ねえ」 「あ?」  私はある日、興味をもって彼に話しかけた。ひとりぼっちでたたずんでいたナランチャは、漫然と振り返る。周囲、つまり私に対する敵意のようなものも感じたけれど、私は構わずに続けることにした。 「私はナマエ。あなたのことを聞きたいな」  ナランチャは少し戸惑ったようだったけれど、キッパリと言った。 「別に、君に話すことなんて何もねーぜ」  残念ながら、彼は心を開いてくれなかった。結局、彼が学校を去るそのときまで、彼は私と打ち解けようとはしなかった。  だけど、彼と少しずつ接触していくことで、私は確信した――この少年はやはり、何か持っている。私には触れることのできない、何かが。  それに触れることができないのが、歯がゆかった。だけど、これで良いのだという気持ちも、確かにあった。 「じゃあな、ナマエ」  彼が学校を去る直前――ナランチャは最後に、名前で呼んでくれた。  だけど、それだけだ。結局今に至るまで、私は彼と再会することはなかった。  なぜ急に、彼のことを思い出したのだろう。ツバメのことを眺めながら、私は思う。  だけど、なんとなく――彼が今、このクラスで授業を受けていたらどうだったかな、と思った。 「ナランチャくん、16の平方根はいくつですか?」 「えっとォ~~、オレ、そんなの分かんねえよォォ――。えと、30?」 「それは6×5です。ちゃんと復習してきなさい」  こんな光景が、ありありと浮かんでくる。 「ナランチャ、バッカでー。なーんで、平方根が16より増えるんだよッ」 「う、うるせーッ! オレだって、今におめーらを抜かしてやるんだからなッ!」  バカにされて怒りつつも、どこか楽しそうな笑顔が浮かんでくる。 「ナマエ、授業終わったぜ。えっと……一緒に、メシでも食わねーか?」  誰にも心を開くことなく、ひとりで何かを信じて閉じこもっていた彼が周囲を信じ、二年前は全く見せなかった笑顔で楽しそうに過ごしている姿が浮かんでくる――  この幻想は、私の望みなのだろうか。二年前、たった半年間しか同じ学校にいなかったあの少年と、私はこうやって過ごしたかったのだろうか。  それとも。私は、まだそう遠くに行っていないツバメを眺める――あのナランチャ自身が、学校に通いたいと、そう思っているのだろうか?  もし。もしそうなら、今からでも学校に来れば良いのに。そう思った。あの自由なツバメのように、彼もきっと自由だ。  ……なんて。  急に私は、何を考えていたのだろう。二年前に半年間だけ過ごした、私たちに心を閉ざした少年の気持ちなんて、分かるわけがないに決まっている。  彼がまた学校に来たいと思ったなんて、そんなわけ、ないだろう。  空はいつの間に暗くなり、雨が降ってきていた。そんな暗い空の下には、ツバメなんて飛んでいるわけがなかった。  あのツバメはもしかしたら、私が見た幻想だったのかもしれない。今日見た夢のように。  数日後。雲が晴れ、太陽が覗いて、風が噂を運んできた――ナランチャ・ギルガという少年が、二年前に私たちと半年間だけ過ごしていた少年が、死んだらしいと。よく理解できない話ではあるけれど、裏社会に何か変革があったらしいとも。  それを聞いて私は、ああ、と嘆息した。彼が何を思っていたとしても、彼は二度と学校に来ることはない。  あのツバメのように、彼は、手の届かないところにいってしまった。  結局はよく知らない少年のことだし、涙は出なかったけれど――もう二度と、彼とは絶対に一緒に学校に通えないという事実が、少し悲しかった。  それでも、あの飛んでいった自由なツバメのことを、少し羨ましく思いながら、私は地を歩いて学校に行く。  空が遠いなと、そう思いながら。

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