誰も傷つかない静かな場所で

※謎時空/暗い  夢を、見た。 「何してんだよ、ナマエ? 早く行こうぜーッ」  否。私は今、夢を夢だと明確に自覚しながら――夢を『見ている』。 「どうしたんだよ、ナマエ? 変な顔して」  目の前にいる青年は、自分こそ変な顔をして、私に向かって言った。  これは、夢の世界である。それを私に自覚させたのは、紛れもなく、目の前にいる青年――ナランチャの姿によってであった。  彼の言葉に私は、だって、と口ごもる。  自覚はないが、夢の中の私は変な顔をしているらしい。だが、そうなってしまうのも無理はないと思う。  だって、私の知っている私の恋人は、ナランチャ・ギルガは――自分の車を持っていない、十七歳の少年だ。  だから―― 「ホラ、早くオレの隣の席に乗ってくれよ! だーいじょうぶだって、ちゃんと『オレの車』だからさァーッ」  眼の前にいる『彼』は、私の知っているナランチャよりも、ずいぶんと大人びて見える。正確にはわからないが、あえて言えば、見た目の年齢は二十歳を少し超えたくらいに見えた。それに彼はこの、自分が乗り込んでいる車――なかなか趣味の良い車だ――を、『自分の車』だと言った。  こんな状況を見て動揺するな、と言う方が無理な話だと思う。私が今見ているナランチャは、確かに「四~五歳は歳をとっていて」、「自分の車を持っていた」。  この、目の前で繰り広げられている現実離れした光景を見て――これはあくまで夢なのだと、ありありと思い知らされた。同時に、確かにここは現実の世界ではないのだと、そうも思い知る。  つまり、今、私の目の前にいる彼は、私の知っているナランチャではないのだ。  だけど。 「そうだね、ごめんなさい。今行くから」  たまには、こんな夢も良いじゃないか。夢というのは、無理に覚まそうとするものでもない。このまま目覚めて現実に戻れば、私がよく知っている十七歳のナランチャが待っているけれど。一足先に、少し大人になったナランチャと過ごしてみるのも悪くない。  そう思って、私は彼の車に乗り込んだ。車に乗った瞬間、私の好きなナランチャの匂いがして、なんとなくだけど懐かしい気分にさせられた。 「で、どこに行くの、ナランチャ?」  ナランチャの好きな音楽。ナランチャの運転。すぐ隣にいる、少しだけ大人になったナランチャ。  それらがどうにも心地よく、私はどこかぼんやりした気分で口を開いた。なんだかうまく頭が回らないのは、夢の中だからだろうか。  私の問いに、ナランチャは少し照れくさそうな顔をしながら、「オレの好きなところだよ」と答えた。 「それって、結局どこなの?」  私がそう聞いても、ナランチャは少し微笑んで「内緒」としか言わなかった。  ナランチャは今まで、こんなに大人びた表情をしたことがあっただろうか? 思い出そうとしたけれど、どうにも思い出せなかった。  そして、何か大事なことを忘れているような気がしたけれど、気のせいだと思うことにした。 「ここは……」  レストラン? それとも庭?  ナランチャの運転で来た場所は、良くわからない場所だった。とても涼しく、静かな広間。そこのレストランに庭が隣接していて、なんとなくノスタルジックな気分にさせられるのは、どうにも変な感じである。その庭には、どこかで見たことがあるような花が、誇らしげに咲いていた。  良くわからない場所――だけど、それによって、「これは夢なのだ」と思い知らされた。夢の中の世界なんて、どうせ良くわからない場所ばかりなのだから。 「良い場所だろ?」  私が内心そんな風に思っていると、ナランチャは嬉しそうに言った。 「……良い、場所」  彼に言われてはじめて、「確かに」と思った。良く分からない場所、良くわからない光景。確かに良くわからない場所ではあるが、それでも良い場所には違いない。  私はそっと、息を吸い込んだ。澄んだ空気が、とても心地よかった。  静かな空間、静かな場所。そんな所で耳をすますと、ナランチャがよく聴いていた音楽が聞こえてきた。  ナランチャはそれに合わせて、楽しそうに身体を揺らし始めた。どこまでも静かなのにアメリカン・ラップが決して小さくはない音量で流れているのは、矛盾しているように思えるのに、何故か違和感を覚えることはなかった。 「ここな、ピッツァもスパゲティも食べれるんだよ。しかもいつも、思い出の味と一緒なんだ。この庭だって、見てると子ども時代のことを思い出したりなんかするぜ」  ナランチャにそう言われるとすぐに、どこからか食べ物の良い香りがした。これは確かに――私たちの故郷の、ピッツァの香りだ。 「本当に……素敵な場所だね」  私は、心からそう言った。夢の中の世界だとはわかっているけれど、大人になることができたナランチャも、静かでどこか爽やかな空間も、音楽も食べ物も、全てが素敵に感じられたのだ。  そう。この世界は、ナランチャの好きなものだけで構成されているように見えたのだ。ナランチャの好きな音楽、ピッツァにスパゲティの出てくるレストラン、冬の朝を思わせる静かな空気。そして――庭いっぱいに咲き誇る、どこかで見たような花。  どこまでも理想的な、幸せな世界。  ここが、夢の世界か。そう思って納得しようとしたところで――ふと、そこでどこか、違和感を覚えた。  夢の世界、というよりはまるで、  まるで、天国のような―― 「オレさ、君がここに来たら、言おうと思っていたことがあるんだ」  ふと、ナランチャが真剣な眼差しで私のことを見つめてくるものだから、私は思わず姿勢を正す。  大人になった顔立ちも、そこでようやく、十七歳の彼とさほど変わらないように見えた。それだけに、胸が締め付けられるような思いをする。  ナランチャの言葉の紡ぎ方が、まるでプロポーズみたいで、それで。 「オレは、君が好きだ。だから、ナマエとずっと一緒にいたい。だけど」  同時にそれは、一生の別れを告げるみたいで―― 「だけど――」  彼は何かに気がついたような顔をした。  そして、少しだけ寂しそうな顔をした。 「オレはまだ、君にここに来てほしくない」  え、と唇から思わず声が漏れた。そしてナランチャが言葉を放った途端、世界の形が崩れていくのがわかる。 「ナマエがここに来てくれたときは、ちょっと悲しかったけど、また会えて嬉しかったんだよ。だけど、まだダメみたいだな」  どこか泣き出しそうな顔で、ナランチャは私に笑いかける。その感情は、喜びなのか、それとも悲しみなのか。 「ナランチャ」 「ナマエはまだ、ここにくるべきじゃあなかったんだな。ナマエはまだ、この先のバスにのるわけにはいかなかったんだな」  事態を飲み込めていない私の声なんて聞こえていないように、彼は言葉を続ける。  何もわからない。何も考えられない。ぼんやりした気分は今でも続いているが、何かとんでもないことが起きていることだけはわかった。 「ブチャラティとアバッキオにも、会わせてやりたかったんだけどなー。ま、それはまた今度で良いか」  ナランチャの姿が、いつの間にか私の知っている姿に戻っていった。まだ十七歳の、自分の車を持っていない、ひとりの少年の姿に。  私がよく知っている、恋人の姿に。 「でも、またすぐに来たりするんじゃあねーぞ、ナマエッ! あと50年とか100年とか、その先とかで良いんだからな!」  ナランチャ、と声を出そうとするが、私の声は届かない。ナランチャはそっと両手を伸ばしたが、私の顔には触れそうで触れなかった。もしかしたら、触れることができなかったのかもしれない。 「ほら、そんな顔すんなって! ナマエもわかってるんだろ、まだここに来るべきじゃあないってことはわかってるんだろ?」  ナランチャの言葉に、ハッと心で理解する。そうだ、ナランチャの言う通りだ――そう感じた私は、少しうつむいて、そして頷いた。  すると彼は安心したような顔をして、嬉しそうに笑みを浮かべた。 「いつまでも、待ってるからさ。オレはここにずっといるから、ナマエは安心して良いんだぜ」  世界がいよいよ崩壊して、形がなくなった途端――最後まで私の前に残ったのは、ナランチャの姿それだけだった。  その姿が、その笑顔が、どうにもまぶしくて。  彼に触れたくて、手を伸ばしたけれど――もう触れることは叶わず、私の手は空しく宙を切った。 「ほら、飛んでいけよ! またいつか、絶対会おうぜ! それじゃあな――ッ!」  その言葉を最後に、私の世界は真っ暗になる。  そしてナランチャの笑顔が見えなくなった途端、さっきまで庭いっぱいに咲いていた、どこかで見た花の花弁が舞った。  この花は。この、花は。  この花は、ナランチャの最期に、ゴールド・エクスペリエンスの力で生命となった――  そして、気がついたら。  私は、死にかけていた。  というよりは、死の危険から脱した、といった方が正しいのかもしれない。  身体中が痛みで悲鳴を上げているのを感じながら、わけもわからず白い天井を見つめるしかなかった。――どうして私、こんなところに。 「目ェ、覚めたか?」  そうしていると、私に向かって声がかけられた。この聞き慣れた声は――ミスタの声だ。 「ジョルノに感謝するんだな。ジョルノがいなかったらオメーは確実に死んでたぜ。いくらジョルノを守るためだからといって、あれはやりすぎだ」  呆れが混じったようなミスタの言葉を聞いて、正直ミスタにだけは言われたくない言葉だと思ったけれど、わけもわからず素直に頷いた。そして同時に、自分はそんなことをしていたのか、と思う。  ミスタの口ぶりから察するに、私は組織の今のボスであるジョルノを、敵からの攻撃から守るために、無鉄砲な行動でもしたのだろうか。そのことを思い出そうとしたが、うまく思い出せない。どうやら今の私は、少し前後の記憶が曖昧なようだ。  でも、それも仕方がないことだと思う。  私はさっき、夢の世界で最愛の人と再会したばかりなのだから。  自分が死にかけたことで、既に死んでしまった愛しい人と、死後の世界のような場所で再会してきたばかりなのだから――  夢の中から抜け出せきれていない私は、まだどこかぼんやりとしながら、ミスタに聞いた。 「ジョルノは?」 「今は仕事に戻ってるよ。今はジョルノに他のヤツが護衛についてるから、その点の心配はいらねえ」  ミスタの言葉に、そっか、と呟く。なんだか、心が締め付けられるような感情を抱きながら、私はさらに、質問を付け加えた。 「――ねえミスタ、あれから何年経ったっけ」 「何の話だ?」 「その、ジョルノがボスになってから」 「……それ、わざわざオレに聞くか?」  顔をしかめたミスタの答えに――ああ、と自然に思い出した。そうだ、ジョルノがボスになってから、みんなとの別れを経験してから――ちょうど、四年だ。  夢の世界の私は、それに気がついていなかった。いちばん大事なことを忘れていた――現実に戻ってきても、十七歳のナランチャに会えるわけなんかじゃないということに。  思い返せば確かに、あの夢の中で見たナランチャは、死後の世界で出会ったナランチャは、二十歳を少し超えたような年齢だった。あれが夢の世界なのか、死後の世界なのかはよく分からないけれど――あのナランチャが、「今のナランチャの姿」であることは確かだろう。ナランチャがもし今も生きていて、成長していたとしたら、あんな風になっていたのかもしれない。もしかしたら、行きたがっていた故郷の学校にも通っていたのかもしれない。  だけど、それは叶わなかった。それを実感すると同時に、四年越しに彼のぬくもりが恋しくなる。  せめて夢の世界だけでも、ナランチャに触れたかった。もしかしたら夢の世界ですら無理なのかもしれないけれど、大好きな人のことを抱きしめたかった。  それでも、私はまだ、彼と永遠を過ごすことができるわけではなかった。彼の元に逝くことは、まだ許されていなかった。 「ねえ、ミスタ」 「どうした」 「夢でナランチャに再会した――って言ったら、あなた、どう思う」  戯言だ。そう思われるかもしれない。でも、どうしても誰かに言いたかった。最愛の人と再会したことを。  私の言葉にミスタは、少し意外そうな顔をして、そして微妙な声色でこう言った。 「おまえ、ちょっと休んだ方が良いんじゃあねーの……ジョルノには言っておくからよ。その、早く家に帰って休め、ナマエ」  気を使われてしまったかもしれない。私は苦笑しながら、痛みに耐えて立ち上がる。負傷したらしい傷跡は、どこもかしこも癒えてしまっているが、痛みだけは依然残ったままらしい。  ミスタに礼を言い、後でジョルノにも礼を言わなきゃいけないな、と思いながら、私は帰路についた。その間、身体中の痛みは、ずっと私のことを責め立てた。  この痛みは、ナランチャを失ったばかりの四年前の私が感じた痛みに似ているなと、そう思った。  そして私は、自分の家に戻ってきた。なんだか、この家に戻るのはずいぶん久しぶりな気がする――というよりは、夢の中の世界にいたことが、あまりにも長い時間だったような気がする。  とりあえず電気をつけて、動き始めると――ふと、視界に映るものがあった。  それは、一枚の写真だった。  四年前からずっと置いてある、なんてことはない写真だ。見慣れた写真のはずなのだけれど、今の私にとってはやけに、感情を揺さぶられるものだった。  なぜならそれは、十七歳のナランチャと四年前の私が写っている、とても幸せそうな写真だったから。  私がいくら焦がれても二度と戻ってこない、幸せな日々を切り取った写真だったから――  写真に写る二人は満面の笑みで、今の私に向かって微笑みかけている。それを見て、なんだか目を背けたくなってしまいそうになったけれど――ふと、写真のナランチャにある、腕の傷跡に気がついた。  彼がいつどこでその傷をつけられたかは、さすがに覚えていなかった。フーゴと喧嘩してつけた傷なのかもしれないし、敵と戦って受けた傷なのかもしれない。もしかしたら、単純に転んだだけなのかも。  だけどもう、ナランチャは傷つくことすらない。  ナランチャのことを傷つけることのできる人は、もういない。  彼はもう――誰にも傷つけられるところのないところへ逝ってしまったのだから。  ナランチャはもう、信じていた人に裏切られることも、誰かから悪意を向けられることもない。悪意が存在したとして、彼のもとには届くことは永遠にない。  今の彼はきっと、あの静かな、好きなものだけで構成された、幸せな世界にいるのだ。  誰も傷つくことのない、あの場所で。  それを自覚した途端、癒えたはずの私の身体の傷が、急に痛み始めたように感じた。  ナランチャが生きていた十七年という生涯で受けてきた全ての傷を、一心に受けているような錯覚を覚えた。  彼が受けたであろう傷は、こんなものじゃないはずなのに。  ふと気がつくと、写真のそばに、どこかで見た覚えのある花が置いてあった。  こんな花を持ってきた覚えはない、と思ったところで、私は気がつく。  この花は。  ジョルノがナランチャの最期に、まるでナランチャの盾のように咲かせた――あの花だ。 「もう誰も、あなたを傷つけることなんてない。あなたはもう、誰にも傷つけられない場所に行ったんだね」  私は花を眺めながら、手元にある写真をそっと撫でる。寂しい気持ちもあるけど、最愛の人が二度と傷つくことがないと考えると、安堵の気持ちも生まれていた。  それに。 「あなたはもう、ひとりぼっちなんかじゃないもんね」  この花を見ていると、このことをありありと思い知らされた。彼は、遠いところに逝ってしまったけれど――きっと、私の想いは、届いているはずだ。  そして彼の想いも、きっと私に届いているのだ―― 「そして私も、ひとりぼっちなんかじゃない」  このことに気がつくのに、私は四年もかかったらしい。苦笑しながら花を持ち上げると、花びらがひらひらと舞った。  その瞬間、私の身体を襲っていた痛みが、急に感じられなくなる。なんだか、ナランチャが人生で受けてきた全ての痛みが、開放されたみたいな感じがした。  さまざまな感情が胸の奥からこみ上げてきて、少し泣きそうになった。  気がつくと、かなりの時間が経過していた。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ナランチャと夢の中で出会ったことも、かなり昔の出来事のように思える。  だけど、もう既に辛くはない。  それどころか、どこか爽やかさを感じる気分でもある。寂しさと温かさが胸の中に同時に存在していて、胸中はどこまでも穏やかだ。まるで、あの夢の世界みたいに。  それを自覚した途端、今度こそ夢から抜け出せた気がして――私は、立ち上がり、そして歩き出した。  大好きな人にまた会うまでの日々を、傷つきながらも精一杯生きるために。

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