※病み この世で一番大切なものは何か? ――それは友情だ。 ナランチャは昔、そう思っていたようだ。だが、今は違うらしい。 じゃあ今は何だと思っているの、と聞くと、彼は少し考えてから、答えた。 それは―― 「ナマエ。おはよう」 恋人の家で、恋人の声で目が覚めた。 目が覚めたそのすぐ先には、恋人の顔があった。 「……ナランチャ」 寝起きの頭で、何故ここに彼の顔があるのかを考える。やや幼い、私の好きな顔。それを見ていると、全てがどうでもよくなってしまいそうになる。 上手くはたらかない口を回して、私は彼に聞いた。 「ええっと……帰ってきてたの」 そう、出かけていたナランチャが、家に帰ってきていたところだったのだ。寝起きの頭では、その答えにたどり着くまでに、やけに時間がかかった。 そう寝ぼけている私を見て、ナランチャは微笑んだ。 「ああ。ただいま!」 「うん。おかえり」 何気ない会話。何気ない仕草。一見、とても幸せな響きに聞こえる。一見、とても幸せな恋人たちに見える。 ――私が、ここ数ヶ月、一歩もこの家から出ていないということに、目をつむれば。 さらに言うなら――私たちが二人とも、それを心から望んでいるということから、目を逸らせば。 私はここ数ヶ月、ナランチャの家にずっといる。ナランチャ以外の人間と話すこともないし、外の空気を吸うことすらしていない。 だがこれは、自由を奪われているわけでもなければ、もちろん軟禁されているわけでもなかった。 実際、鍵をかけて閉じ込められてるわけじゃないし、出ていこうと思えば出ていくことができる。扉も開けられるし、窓から出ていくことだって容易だ。私はいたって健康体だし、着ている服も好きな服だ。家から出ていない、ということを除けば、私はいたって自由だった。 つまり、私が彼の家にいることを、最終的に選択しているのは、私の方だったのだ。私が、私の意思で、ここに留まっているのだ。 それでもナランチャは、私の選択を――受け入れた。否、望んでいたと言ったほうが正しいかもしれない。 こうやって私が、誰の目に触れることもなく、彼だけのものとなっていることを、ナランチャは誰より喜んだ。 家に帰ってくると、私が必ず居て、彼のことを出迎える。ナランチャはそのことを、何よりも喜んでいる。 家にいるときは、いつも二人一緒にいるし、ナランチャもできる限り、家に居てくれる。 私も、ナランチャも――お互い、この状況を、心から望んでいた。 そう、それだけの話だった。 「ごめんなー、ナマエ」 急に謝られても、何が、とは聞かない。彼はいつも、『ただいま』の後、こう言うから。こうやっていつも、悲しそうに謝るから。 「君を家に独りにして、ごめんな」 私は、口を挟めなかった。ナランチャが、ゆっくりと言葉を続けるから。 「でもな、ナマエ。オレは絶対、君をひとりぼっちなんかにさせないからな」 ナランチャが口癖のように言う、この言葉。その意味は、良くわかっている――だから君も、オレをひとりぼっちにさせないよな。 彼は、私のことを、百パーセント信じている。だからこそナランチャは、私が彼のことを百パーセント信じているのだということを、信じている。 それがわかっているから、私はいつも、ナランチャにこう言うのだ。 「わかっているわ」 ゆっくりと、言葉を連ねる。彼に言う、というよりは――自分に言い聞かせるように。 「私は、絶対に、あなたの元から離れていったりしない」 私がこう言うと、ナランチャはいつも、嬉しそうに笑う。 私たちがこうなってしまったきっかけは、何だっただろう。 「なあナマエ、今日からここで暮らそう。今日からここは――オレたちの家だ!」 あの時、彼にこう言われてから――私の運命は、ひとつに決まった。 最初は、ただ純粋に、二人で暮らすことができて、幸せなだけだった。 先におかしくなってしまったのは、どちらだったのだろう。 最初に、ずっと一緒にいたいと言ったのは、ナランチャだったのかもしれない。それから私が、この家から一歩も出なくなったのかもしれない。 それとも、私が彼と離れたくなくて、この家から出なくなったから――ナランチャが、ずっと一緒にいたいと、願うようになったのかもしれない。 「ナマエは、ずっとオレのだ。オレだけのものだ」 ナランチャはいつから、こういう風に言うようになったのだろう。 「オレはな、ナマエのことを誰にも見せたくないんだ。独り占めにしたいんだよ」 ナランチャが無邪気な笑顔で、こう言うようになってしまったのは、いつからだっただろう。 「なあナマエ。君に、オレだけの前で笑って欲しいんだよ……」 私が――ナランチャの前でしか笑えなくなったのは、いつからだっただろう。 それはわからない。いつからこうだったのかなんて、もはや思い出せすらしなかった。あの時からどれほど月日が過ぎたかも、わからなかった。 だけど――私は、それで、良いと思っていた。だから、私は、ずっとこの家にいて、ナランチャと一緒にいるのだ。 この家から出られなくなった、ナランチャから離れなくなってしまった。――そう言っても良いのかもしれなかった。 「オレのだ」 ナランチャは今も、私のことを抱きしめながら、そっと囁く。 「オレだけの、ナマエだッ……」 もろく、はかないものに触れ得るかのように、私に触れる。 「だから、ナマエ」 ナランチャはきっと、心から私のことを信じている。だから――私も、ナランチャのことを心から信じているはずだと、疑いを持ってすらいないのだ―― それは、決して間違っておらず、むしろ当たっていた。 彼の持つ、どこまでもまっすぐな忠誠と愛情。それは時に、重たいものとなり得た。 私の身体では耐えられないほど、押しつぶされそうなほどに。 「ずっと、一緒だよな!」 どこまでも無邪気な笑顔で、彼は言う。私の目を、真っ直ぐ見つめて。 ナランチャは知らないのだ。彼は、大切なものを壊さないようにして、大事に大事にしているつもりなのだろうけど――むしろ、その行動が、私の心を壊していっているということを。 「……うん。ずっと、一緒だよ」 だけど私は、それでも良いと思っていた。 ナランチャは、私の心を縛っていると、自覚していない。 彼はただ、独り占めをしたいだけなのだから。どこまでも無邪気に、まるで子供みたいに。 そして実際――彼が私を束縛しているのではなく、むしろ私が彼に束縛されにいっているのだった。 この関係を、ありふれた言い方で表すならば――結局は、ただの共依存でしかなかった。 ナランチャは昔、信じていた人に見捨てられた。 だから、私がこの世で一番大事なものを聞いた時――こう答えたのだろう。 この世でいちばん大事なもの。それは、大事なものを、大切にすること。守り抜くことだという。 守り抜くべき大事なものは、信頼であり――そして、私自身だと言った。 「ナマエ、君はオレが守るよ」 「……ナランチャ」 ナランチャはきっと、ずっと私のことを、大切なものとして『大事にする』のだろう。 大事にするからこそ、壊れていくことには、気づかないまま。
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