ある過去の一頁

▼露伴学生時代捏造 「岸辺、くん?」   たまたま町中で出会った親友、康一くんと話しているときに、聞き覚えのない声がぼくの名前を呼んだ。  誰だ? そう思いながら、声の聞こえてきた方向に顔を向ける。  そこには。ぼくと歳の近い若い女が一人、立っていた。 「露伴先生、お知り合いですか?」 「……あー」  康一くんが、不思議そうな顔をしてぼくと彼女のことを見上げている。よく見ると、女は驚いたような表情で、ぼくのことをじっと見つめていた。 「えっとォ……どちら様? 仕事の関係だったら、失念して申し訳ないね……だが。ぼくのことを、岸辺くん、だなんて呼ぶ仕事関係の人間はいなかったと思うが」  全て本心だ。最も、仕事の関係とは思えなかったから、申し訳ないなんて微塵も考えていなかったが。  つまり。ぼくにとってはその女は、全く見知らぬ存在であったわけだ。  彼女は少しだけ寂しそうな表情をした後、微笑みながらこう言った。 「久しぶり……って言っていいかは分からないけど。私、苗字名前。中学のとき、岸辺くんとは同じクラスだったよ」 「苗字名前、ねえ……」  そんなクラスメイトもいたかもしれない。だが正直に言えば、五年以上も前のことだ、あまり覚えていないというのが率直な感想だった。 「生憎、ぼくは思い出話に花を咲かすことに興味なんてないわけだがね。最も、ぼくと君の間に、特別思い出話をするようなネタがあるとも思えないが」 「……変わってないね、岸辺くん」  そして彼女はくすくすと笑う。その笑顔をなんとなく見つめながら、ぼくは思わずため息をついていた。  塾がある、と言いながら、康一くんは席を外してしまった。あまり覚えてもいない自称クラスメイトなんて放っておいて、信頼できる友人である彼のことを追いかけても良かったわけだが――ぼくは、なんとなく彼女のことが気になっていた。 「さっき会った子は露伴先生って言ってたけど……露伴先生、って呼んだほうがいいのかな?」 「好きに呼べばいい。ぼくの漫画を読まない人間に、先生と呼ばれる理由はないがな」  何故彼女と話をする流れになっているのだろう。だがそのまま立ち話を続ける。  もしかしたら、何かいいネタが出てくるかもしれないからな。少しくらいなら、話してやってもいいだろう。 「……読んでるよ」 「何?」 「岸辺くんの漫画、読んでる。デビューしたときから、……ううん、その前から。ずっと」  彼女は微笑みながらその言葉を呟く。それをぼくは、怪訝な表情で見ていた。 「デビューする前から、だと?」 「うん。……一目惚れ、だったの。私が隣の席で、描き上がっていく絵を見ていても、全然気付かないまま、一生懸命漫画を描いている岸辺くんが好きだった」  急に覚えてもいない思い出話と告白をされ、思わず面食らった。  確かに中学生の時、休み時間になる度に漫画を描き続けていたことは覚えているが、そんなぼくに近寄る人なんて誰もいなかった。ぼくにとっては、むしろそれが好都合であったわけだが。 「だから岸辺くんがデビューしたと聞いたときは、本当に嬉しかったな。あの岸辺くんが、夢を叶えたんだなって思うと……」  話し続ける彼女に、ぼくは冷たく言い放つ。 「へェ、そうかい。初恋の名残なんてもので、ぼくの漫画を読んでいたと?」 「そうじゃないよ!」  存外大きな声で否定され、思わず言葉に詰まる。そんなぼくに、彼女はしっかりと言葉を続けていった。 「……ううん、最初はそうだったかもしれないけど。読んでいくうちに引き込まれて、夢中になって、それでね」  そこで彼女は急にもじもじした。 「えっと、つまり、その」  一体何だって言うんだ? 怪訝に思っていると、彼女は思い切った様子で、こう言ったのだった。 「岸辺露伴先生。サインください!」 「……何かと思えば」  少しの沈黙。その後、ぼくはニヤリと笑った。 「いいだろう、気に入ったッ! サインくらい、スペシャルサンクスさ」  ぼくへの恋心なんかで漫画を読み続けると言うのなら、彼女のことなんて放っておいても良かった。  だが違う。彼女は初恋を抱えつつも、ぼくの漫画の「読者」であり続けた。  ならば。ぼくは彼女に、敬意を払う。昔からぼくの「読者」であった、彼女に。 「ありがとう、露伴先生! うわあ、大切にするね」  彼女は飛び上がるように喜んでサインを抱える。  それは確かに、ぼくの漫画の「読者」の姿だった。 「引き止めてごめんね。でも、ありがとう。漫画、これからも読むからね。応援してるから!」  そして浮かれながら立ち去ろうとする彼女にぼくは、思わず名を呼んでいた。 「おい。……苗字、さん」  口に出してみて変に思った。だが、学生時代のぼくは確か、同級生の女子のことは、無難にこう呼んでいたはずだ。  名を呼ばれた彼女は、きょとんとして目を瞬かせた。 「その、なんだ……。ぼくは、今はこの街に住んでいる。ぼくは同窓のよしみなんてものはくだらないとは思っているが――だが。君には、またサインしてやってもいいと思ってるよ」  ぼくの言葉を聞いた彼女は、噛み締めるかのように目を伏せた。そして。 「ありがとう。……嬉しいよ、岸辺くん。うん、また会いに来るね!」  そして彼女は屈託なく笑った。そして、浮かれながら踵を返す。それをぼくは、ぼんやりと見送っていた。  その笑顔に、ぼくは何故か、ほんの少しの懐かしさを感じていた。  本当は、全く思い出せないわけでもなかった。立ち去った彼女のことを思い出しながら、ぼくはスケッチブックを取り出し、苗字名前の笑顔を描いていく。中学生だった頃の、彼女の笑顔の思い出を。  そう、本当は、彼女の笑顔には見覚えがあった。……忘れていた。休み時間、ぼくが絵を描く度に、覗き込んでくる彼女のことを。邪魔にならないように気を配っていたつもりだったようだが、苗字さんがぼくの絵を見ていることは、分かっていた。  その上で、邪魔ではなかったから、そのままにしていた。目を輝かせながらぼくの絵を見ている彼女の姿が、今になって蘇ってきた。ぼくの中にも確かにある、青春の一頁を。 「……次に会ったときにも、またサインを描いてやるか」  そしてぼくも家に戻ることにする。今日得たインスピレーションを、漫画に叩きつけるのだ。  案外、いいネタが見つけられたかもしれない。過去にも、ネタはあるものだ。それを実感した。  そんなことを思いながら、ぼくは、彼女の笑顔を脳内に反芻し続けていた。

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