初め、女はその男に対し、命を取られてしまうかもしれないといった『恐怖』の感情を抱いていた。 「君は、普通の人にはない、何か特別な力を持っているそうだね。どうだい? それをこのわたしに、見せてくれないだろうか」 男が微笑み、とびきり甘い声で囁いても、女はただ足を竦ませるだけであった。 そんな彼女を見て、男は少々意外な思いに駆られた。『スタンド』と呼ばれる不思議な力を持っていても持っていなくても、彼の前に参上した今までの女は、皆例外なく、彼にカリスマ性のようなものを感じ、心酔してひれ伏したのだから。または、彼の容姿の美しさ故に、女共は自らの命すら捧げたのだから。 しかし、彼女の表情に『恐怖』は浮かんでいるが、『心酔』などといったものは見られない。女は男を見上げ、怯え、恐怖し、そして涙を流している。彼女には、自らの『スタンド』を発現させる余裕すら見当たらない。 そんな彼女を眺めた男は、口許に浮かべた笑みを消し、震え上がる女に向かって手をかざした。 「フン。ならば仕方ないな」 男は、自らの髪の毛から『芽』のようなものを創り出し、女の額へと植え付けた。女は避ける暇もなくそれを食らってしまう。そしてそのまま、彼女は訳もわからず突っ立っていた。 だが暫く経った後、女の顔が先程とは見違えるかのように輝いてくる。男は自らの『肉の芽』の力が発揮したことを確信し、安らぎすら与える優しい声で、そっと彼女に囁いた。 「おまえの名前を聞いてもいいか?」 「……ナマエです」 ナマエか、と男は呟いた。その時の彼は、女のことをただの『駒』としてしか見ていなかったが、この名前は一応覚えておこう、と頭に叩き込んだ。 「わたしに仕えないか? おまえのその力を、このDIOの為に振るうのだ」 「……はい、勿論です。DIO様」 女は、目を上げてこう告げた。彼女の声色は、怯えるかのように震えてもいたが、奇妙なことに明瞭でもあった。 それが、女の持っていた男への『恐怖』が、『崇拝』へと塗り替えられた瞬間であった。 「DIO様!」 ある夜。館にいた彼女は、読書をしていたDIOの元へ駆け出した。 「DIO様、わたしにも戦わせてください。わたしだってスタンド使いです」 DIOは本を閉じ、彼女の方へ視線を向けた。そして彼は、ため息にも似た息を吐き出す。 「……おまえは部屋にいろと言ったろう、ナマエ」 「そうですけど」 彼女は口を尖らせると同時に、不思議そうに男を見上げた。何故自分が彼の為に戦うことを許されていないのか、理解していないのだ。 対してDIOは、形容しがたい感情を込め、彼女を見下ろした。今の彼は、彼女のことをただの『駒』としては見ていなかった。 「……ナマエ。おまえはおまえの命を、本当にこのDIOに捧げることができるのだな?」 「当然ですよ。わたしの命は、DIO様の為に存在しています」 DIOはその言葉を聞くと、口角を上げ、彼女の頭に手を置いた。彼女は突然頭に感じた彼の手の感触に、驚き、慌て、そして顔を赤らめた。 「……なあ、ナマエ」 男が問いかけると、なんでしょう? と慌てつつも、努めて冷静に答えようとする彼女。男はそんな彼女を眺めたが、何も言わなかった。 彼らは暫くそのままだったが、やがて彼は彼女の頭から手を引いた。 「DIO様、どうされたんですか? あの、光栄なことではありますが、畏れ多いです」 「……いいや、なんでもない。おまえは部屋に戻っていろ」 彼の言葉に、彼女はがっかりしたような顔を見せた。 「……はい、わかりました。けど、いつかはわたしもきちんと働かせてくださいね。わたしはDIO様の力になりたいんです。DIO様のことを邪魔する輩は、わたしの命と引き換えにしてでも、排除したいのです」 「……そうか」 DIOは彼女の言葉を聞いて、少し笑った。それは人間離れした美しい笑みであったが、どこか不満げでもあった。 DIOという男は、ナマエという女に少し興味を持っていた。 初めは、自らの命を案じ、男に恐怖を抱いていた女。だが今は、彼女は男を神のごとく崇め、自らの命を捧げることすら厭わない決心をしている。 「おれが『肉の芽』を植え付けるだけで、人間というヤツはこうも変わるものなのだな」 男が独りごちても、その言葉は女には届かない。彼は目を閉じ、彼女について思案した。 「……もし今、『芽』をナマエから取り除いたら……。ナマエはまた、このDIOに『恐怖』するのだろうか。それとも、今までと同じように、犬のように尻尾を降っておれを『崇拝』するのだろうか」 DIOがいくら考えても、答えは出てこない。彼は、長く息を吐いた。彼の息は、白かった。 「……まあいい。あんな女、生かすも殺すもおれ次第だ。おれのことを好いた言動は悪くはないが、それは『芽』によるものだからな」 彼は目を開け、空を眺めた。夜空は灰色の雲に隠されていたが、雨は降り出しそうになかった。 「『芽』を取り除いたらあの女がどうなるのかは、少し興味がある。だが、そうすれば裏切られる可能性は低くはない」 DIOは気づいていた。彼の『肉の芽』は、寄生対象の脳を食い尽くし、いずれ殺してしまうということを。 「フン。……ひとまず、現状を観察することにしよう」 だがそれには、気づいていない振りをした。このまま放置したら彼女が死ぬのがいつになるのか、それは考えないようにした。 「DIO様、お呼びでしょうか?」 「……ああ」 また別の日の夜、彼女は男の部屋へと呼び出されていた。彼女の問いに男が頷くと、彼女は目を輝かせる。 「もしかして、命令してくれるんでしょうか? 嬉しいです! これでやっと、DIO様の役に立てるんですね!」 彼女が心底嬉しそうに、DIOの次の言葉を待っている様子を、彼は黙って見ていた。彼は初め言いあぐねていたのだが、彼女に以前聞いた言葉を、もう一度彼女に問いかけた。 「……ナマエ、もう1度聞く。おまえはおまえの命を、本当にこのDIOに捧げることができるのだな?」 その問いに、彼女は以前と同じように答えた。その目は、初めて『芽』を埋め込まれた時と何ら変わらず、ただ輝いていた。 「当然です! わたしの命は、DIO様の為に存在しているんですから」 「……そうか」 今度はDIOも、やや満足げに微笑んだ。その笑みには、優しさのようで、同時に不気味な感情も含まれているように見えた。彼女はそんな彼を見て、少し驚く。 「DIO様? ……どうしたんですか?」 ……ナマエ。 DIOは小さく、彼女の名を呼んだ。うっかりしたら聴き逃してしまうほどの、小さな声だった。 「……わたしとこのまま共にいろ。それが命令だ」 「……そんなことでいいんですか? それで、DIO様のお役に立てるのでしょうか?」 構わない、とDIOは、口の中で呟いた。彼女は、彼と一緒に過ごせることは光栄なことだ、と喜んだが、同時に釈然としない思いで彼のことを見上げた。男はそんな女を見下ろし、彼女の頭をそっと撫でた。彼女は以前と同じように顔を赤らめ、今度は落ち着いたように目を閉じた。 DIOは気づいてしまっていた。『芽』を取り除くことで、本来の彼女が自身に抱いている本当の感情が『恐怖』かもしれない、と知ることに『恐怖』してしまっていたことを。 それならば、と彼は決意した。――このままでいればいい。そうすればナマエは、このおれのことを『崇拝』し続ける。ナマエが、『芽』に食い尽くされてしまうまでは、永遠に。 彼は、彼女の温もりを感じながら、これでいいんだ、と自分を納得させた。 何がどうあれ、今の彼女は彼のことを『崇拝』し続けている。彼女は彼の為に命を捧げることすら厭わない。――彼女が、『芽』に殺されるまでは、永遠に。 「……ナマエ。わたしから離れるなよ」 「当然です! DIO様の命令と言うのなら、わたしは永遠にあなたと共に過ごします」 彼女の目は、初めて『肉の芽』を埋め込んだ時と同じように、鈍い輝きを放っていた。 ――今の彼女は、自分が死ぬことすら恐れていない。彼女はただ、自分が彼の役に立てればそれでいい、と考えているのだ。 そんな彼女に彼が命令したことは、彼女の望み通り『DIOの役に立つこと』であり、『DIOの為なら死すら厭わない』という思いを尊重するものでもあった。 それならば。DIOは彼女の顔を見つめた。――彼女が『芽』に食われてしまうその日まで、自分は彼女と共にいよう。DIOは自らが撒いたことに対して皮肉に思いつつ、ほんの少し口角を上げた。 彼女の額には『肉の芽』がより深く侵入し、もはやDIOの意思に関係なく、勿論彼女の意思にも関係なく、ただただおぞましく蠢いていた。
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