今、私には最悪なことが二つある。 一つ目。以前から付き合っていた恋人に二股をかけられ、引っ叩いて振ってやったが、気分は史上最悪であること。 二つ目。泣いていた私を慰めに来たシーザー・ツェペリという男も、一途なんて言葉とはほど遠い、プレイボーイであることだ。 「君のことが好きだ、ナマエ」 ある広場の公園で、一人で落ち込んでいた私に。シーザーは真剣な表情でそんなことを言う。思わず「最悪」と言ってしまいそうになったが、理性で堪え、静かにこう聞いた。 「……どうして今、そんな事を言うの」 情けない涙声だ。彼の顔が見れない。そんな中でもシーザーは至って真剣に、とびきり甘い声で、こんなことを言いやがるのであった。 「泣いている君にキスをすることを、許してほしいからさ」 ――嗚呼。やっぱり、最悪だ。 もし私がシーザーのことを知らなかったら、そのまま流されてキスしてしまっていたかもしれない。 だが私はこの男のことを知っている。この男が、多くのガールフレンドを持っていることを知っている。 女の子を泣かせないためならば、平気で嘘をつく男であるということも。 「泣いている君も美しい。だがナマエ、君は、笑っている方がかわいいよ」 そんなことを言いながら、彼は私に顔を近づけてくる。綺麗な髪、吸い込まれそうな瞳。思わず、目を閉じて受け入れたくなってしまう……だが。 「やめて」 強い意思をもって、私は拒絶した。私の言葉を聞いたシーザーは、動きを止める。……良かった。強引に唇を奪われるようなことはなくて。奪われてしまったら、取り返しのつかないことになるところだった。 安堵と同時に、勢い良く言葉が飛び出てきた。二股をかけられた悲しみが、怒りへと変換されていくのを感じていた。 「いい? シーザー。私は振られて凹んでるんじゃあないのよ。私の方から! 振ってやったのよ! 二股クソ野郎を!!」 プレイボーイなんてクソ食らえ。そんな思いを込めて、私はシーザーを睨みつける。 「だから、シーザー。私はね、あなたがガールフレンドをたくさん持っていることを知っているの。二股をかけた男を振ってやった後に、あなたの大勢いるガールフレンドのうちの一人になるなんて、死んでもゴメンだわッ」 そして、ふんと鼻を鳴らす。言い過ぎたか、という思いはあったが、どうにも腸の煮えくり返る感じは収まらなかった。 そんな私の言葉を聞いて、シーザーは一瞬、確かに目を瞬かせた。 「……ははっ!」 そして。シーザーは真剣そうな甘い表情から一転、屈託のない笑みを見せた。それに対し、私は思わず毒気を抜かれてしまう。 「な、何がおかしいのよ」 「いやあ、ナマエ。怒る元気があるのなら大丈夫そうだな」 そしてシーザーは軽快に笑い続ける。私は呆気に取られながら、彼の言葉を聞いていた。 「確かに君は、おれがわざわざ慰めるほどか弱い女性じゃあないようだ、ナマエ……。許してくれ。おれは、君の心を弄んだりなんてしないさ」 そう言いながらも、シーザーは楽しそうだ。それはとても自然体のように見え、さっきほど「最悪」とは思わなかった。むしろ、作ったような甘い言葉よりも、今のほうが魅力的といっていいほどだ。 そんな彼の表情を見ていると、泣いていたことも怒っていたことも、急に馬鹿馬鹿しく感じてきてしまった。 「……もう、何それっ」 そして。思わずつられて、私は笑ってしまった。それは呆れ半分のものではあったが、私は久しぶりに笑っていた。 久しぶりに、男の人と話していて、楽しい、と思えた気がした。 そうやって私が笑っているのを見ながら、シーザーは言う。 「ああ、それとナマエ。君には涙より笑顔の方が似合うというのは、本心さ。最も、怒っている顔が一番似合うかな」 さっきの口説き文句のような言い方よりも、軽口のように言われたその言葉のほうが、私を動かすものがあった。 それでも、私は肩を竦めるに留める。シーザーのことは嫌いではないけど、失恋したばかりだからそういう気持ちにはなれないというのと、大勢いる彼のガールフレンドの一人になりたくないという気持ちが、どうしても拭えなかった。 「そう。でも、キスはしないわよ。もうプレイボーイなんかに、恋はしたくないもの」 「……そうか」 シーザーは不意に表情を引き締める。そして、至って真面目にこんなことを言い出した。 「だが……もしおれが。ナマエ、君だけをたった一人の恋人にしたい、と言ったなら。君はおれが、キスをすることを許してくれるのかな?」 「あなたが本当に他のガールフレンド全員と別れたことを、信用できるならね」 そんな日は来ないように思ったので、皮肉のつもりで言う。だがシーザーは、穏やかに微笑んでいた。 「ま、ナマエが笑っててくれるならそれでいいか。……今はな」 「……もう」 またそうやって意味深なことを言う。そんな彼に、呆れる気持ちが湧き出て来る。 だけど。シーザーの言葉は、もう嫌じゃない。 私とシーザーは顔を見合わせ、そして、二人で笑い合った。今はそれでいいのだと、私もそう思っていた。 もう、気分は最悪じゃあない。失恋の痛みは、しばらく引きずるだろうけど。それでももう、最悪の気分ではなくなっている。 「……なら、もう一つの最悪が、解消される日は来るのかしらね」 そして思わず、ぽつりと独り言を呟く。 もし本当に、シーザーが他のガールフレンド全員と別れて、そのときに改めて口説かれてしまったら。私は、彼と恋をしてしまうのだろうか。シーザーと、キスをしてしまうのだろうか。 「もう、最悪なんて言わせないさ。ナマエ、おれが君の近くにいる限りはな」 「……全くもう」 人の気なんて知らないで、シーザーはまた、冗談のように口説く。それに、うんざりするような気持ちがないわけではないけど。 だけど。もう最悪とは思わない。 私はもう、泣いていなかった。彼の前では笑っていようと、そう思えたから。
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