気がついたら、独りで自室に立っていた。 何をどうやって馬車に向かったのか、それからどう自分の部屋まで辿り着いたのか、全く思い出すことができない。ただ、使用人とも、あの男とも、まともな会話ができなかったことだけは確実だろう。 ただ呆然としながら、部屋の中にいる私は膝から崩れ落ちた。 そして、ワッ、と泣き出してしまった。 私が何を言われたのか。何を言ったのか。 何をされたのか。何が起こったのか。 私が何を考えていたのか。怒りたかったのか。拒絶したかったのか、それとも拒絶したくなかったのか。 私は何故泣いているのか。悲しいのか、辛いのか、悔しいのか、苦しいのか。 全て、忘れてしまいたかった。 涙と一緒に、忘れたかった。 お伽噺では、泣いているお姫様がいれば、王子様が見つけてくれる。 王子様はお姫様を迎えに来てくれるし、お姫様はそれを受け入れる。 だけど、独りで泣いている私の元には、誰も来ない。 涙がどんどん溢れ出てきたので、ハンカチで拭き始めた。息が詰まり、閉塞感に苦しめられる。明日、私の目は確実に赤く腫れることだろう。 唇を犯されてしまい、純潔を失った私は、王子様を求めることすら許されなかった。 淑女的に振る舞うことが苦手な私でも、今まで、それだけは守り抜いてきたのに。唇は、いつか愛し合う人のために守っておきたかったのに。それでも、守りきることができなかった。そんなお姫様の元に、王子様なんて一生、現れることはないだろう。 使用人も、あの男も、誰一人として私の部屋に訪れなかった。 いつもなら、夕食も取らないでいるとお義母さまに叱られたり、使用人がノックしたりするのだが、そのような素振りすらなかった。――もしかしたら、あの男がお義母さまに何か吹き込んだのかもしれない。ナマエは気分が悪いようだ、とか? 私はその夜、一度も外に出ることなく眠ってしまった。どうやら、泣き疲れてしまったらしい。 あの男は、今日は一回も私の部屋に訪れなかった。今までは、いくら邪険にしても毎日しつこくやってきた癖に、この日は気配すら見せなかった。 そして、次の日の朝。 「……ディエゴ」 永遠に枯れないとすら思える涙にも、終わりは訪れる。人間の身体というものはある意味単純だ。思い切り泣いて、ひと通り眠った私は、着実に落ち着きを取り戻していた。 「……ディエゴ。あの男と、話をしなきゃ……」 寝起きの頭で考えても、答えは出ないことはわかっている。眠ったことで、確かに頭の中は整理されているが、それでは足りない。昨日起こった出来事、昨日言われた言葉、昨日私が感じた感情。私の中にせめぎ合うわだかまりを解消するためには、彼と話さなければならない。私一人では無理だ、あの男に文句でも言ってやらないと。――今思うと、昨日のことは全て夢を見ていたかのように思われる。でも、それは確かに現実のことだった。思い出して思わず顔を顰めるが、昨日からのショックからは既に立ち直っている。軽く支度をした後、腫れた目を見開いて、そのまま勢いよく部屋を飛び出した。 ディエゴを探している途中に、私は彼について思案していた。彼が何をしたいのか。私は何をしたいのか。 『運命』なんて胡散臭い言葉を使って、『私と仲良くなろう』なんて言うディエゴ。何故彼が私と『仲良く』なろうとしているのかは、今でもわからない。絶対ロクな理由ではないと思う。 私のことを嘘つきな『蛇』だなんて呼ぶディエゴ。私がいつ、嘘をついたって言いたいのかしら。 そして――昨日言われた、言葉。昨日奪われた、私の唇。 ――気づいているんだろう? ナマエ。自分が義母のことを本当はどうでもいいと思っていることも。このオレと君の義母が、君を差し置いて結婚しているのが気に食わないってだけのことも。醜く老いたあの人に対して、醜く嫉妬しているだけだということも―― 「そんなわけないじゃない」 昨日言えなかった否定の言葉も、今ではすぐに口から飛び出した。はしたないとはわかっているけれど、袖で思い切り口を拭って、今更ながら拒絶の意を示す。誰も見ていないし、誰も聞いていないというのに――この言葉と行動は、嘘なのか、それとも誠なのか。それは自分でもよくわからなかった。 「…………ディエゴ」 図書室の扉を開けると、彼は椅子に座って本を読んでいた。彼が普段どこにいるかはまったく予想も付けていなかったが、一発で当たったことに少し驚く。私が時々朝に図書室を使ったとしても、誰かがいることは今までなかったのに。レースに誘われた時に図書室で話したから、もしかしてここにいるかも、と思っただけなのに。 「待っていたぜ。オレの大事な『蛇』さん?」 「……いつから私はあなたのものになったのよ」 からかうように聞かれたので、少し苛立ちながら返答した。敢えて、蛇という単語を否定はしなかったけれど。ディエゴはそんな私を見ても、顔色ひとつ変えなかった。逆に、面白そうなものを見たかのような表情を見せる。 「これは失礼。君をずっと待っていたぜ、ナマエ。君は今日ここに来ると確信していた」 じっと目を見つめられ、とびきり甘く囁かれた。多分この男は、女性がどうやったら堕ちるのかを知り尽くしている。 けど、流されるわけにはいかない。今日は、文句の一つの二つ、言ってやらないと気が済まないのだ。淑女の唇を奪っておいて、女の目を泣き腫らさせておいて、それでも澄ました顔を見せる男がどうも気に入らなかった。 「ディエゴ、」 「フン? やっと君が名前を呼んでくれたな、嬉しいぜ」 「……茶化さないで」 自分でも気づいていなかった。今まで私が、男の名前を呼ぶことを避けていたことも。今の私が、男の名前を当然のように呼んだことも。 だからといって、動揺したりなんかしない。自分にどんな変化があったとしても――私は、彼が、嫌いなの。その手に乗って、平常心を失うなんて、たまったものじゃない! 「で、ナマエ。何をしにきたって言うんだ? こんなところで二人きりだなんて、またキスをされたいのか?」 「違うわ」 私を煽るような言い方にも、顔を顰めてきっぱりと拒絶した。今まで有耶無耶にしてきたことも、今度こそ白黒つけたいと思う。 「今日は、あなたが本当は何をしたいのか、理由を聞きに来たのよ。その後で沢山文句を言うことにするわ。私は、ケリをつけに来たの」 私が強い口調でそう言うと、ディエゴは目を細めた。彼が何を考えているのかはわからなかったが、その顔は私にキスをした時と同じように、呆れるほど歪んでいた。