「ニュージャージーの、線路……」 逃げるように教会の地下から出て、ニュージャージーへと汽車で向かおうとする。 そういえば、教会の地下で会った男性は新聞に顔が載っていたなと、今になって思い出したが、そんなことはどうでも良かった。 ただ、私には分かっていた。私の人生での出遭いは、いつも最悪なものだって。 あの二人との出遭いは、きっと、最悪な別れの前奏曲だったって。 半日ほど、汽車に揺られただろうか。正直、自分が何をしていたのか全く思い出せないほど、生きた心地がしなかった。気分の悪さだけは、ずっと感じていたけど。 汽車から降りて、線路沿いに歩いていって――『ここだ』と、直感的に思う場所があった。 まず私の目に入ったのは、一頭の気高い馬。それを取り囲む、レースのスタッフと思わしき数人の人間。 そして、線路の辺りに飛び散っている、夥しい量の血の跡。 死体は見当たらない。スタッフたちは血の跡を見て一体ここで何が起きたのだろうか、と話し合っている。どうやらこの出血量――どう見ても致死量だ――に対して、あるはずの死体は見つかっていないらしい。 だが、この光景を見て、私は直感的に理解した。 ディエゴは、私の知るディエゴ・ブランドーは、ここで死んだ。あの血は、ディエゴが流したものだ。 もう、この世のどこにも居ない。 「……ううっ」 この惨めな声は、誰のものだろう。 ……私のだ。私の口から漏れ出る嗚咽だ。 ボロボロと、目から涙が零れ落ちて、前が見えなくなる。わけも分からないままで。 この感情は何? 悲しみ? 苦しみ? 怒り? 『優勝はこのDioのものだ。それを忘れるな、ナマエ・ミョウジ――』 嘘つき。本当に、あの男は嘘つきだ。 レースをゴールしたはずの、私のことを知らなかったディエゴ・ブランドーが何者かなんて、今となってはどうでもいい。彼もきっと、あの教会の地下で死んだのだ。 そして、私の知るディエゴは――ここで、死んでいた。レースの途中で。志半ばで、死んだのだ。 ……死んだ? あのディエゴが、死んだ? 「私の人生を、どれだけコケにすれば気が済むつもりなの、あの男は……っ!」 涙と共に零れ落ちる怒り。勝手に死んだ彼への怒り。彼のいない、世界への怒り。 私がこの地に降り立った時点で、既に手遅れだった。嫌な予感は、的中していた。 あの男は、ディエゴ・ブランドーは、私から全てを奪って、そして私の元から去っていった。私がまだ、何もできていない間に。 私は……私は一体、これからどうしたらいい? 彼を失った、全てを失った私は―― 「……シルバー・バレット」 涙は止まらない。それでも私は、おもむろに顔を上げた。 死体ごとどこかに消えたディエゴが遺した、彼の愛馬。スタッフに囲まれる気高い馬を、私は遠くから、ぼうっと見つめる。 この馬はこれから、一体どうなるんだろう。ディエゴは死んだ。これからも行方不明扱いのままだ。そしてあの馬も、きっと私と一緒で、自分のこれからの道が分からないままなのだろう。 ――その時、ふと思いついた。 あの馬となら、もしかしたら、ディエゴの愛馬となら。 私にとっての新たな道を歩めるのではないか、と。 レースのスタッフたちの様子を窺う。彼らは、やや遠くから見ている私に気が付いた様子はない。機会を計って、身を潜めていたら――ふと、スタッフたちが馬から離れた。そして彼らは、線路の方に向かっていく。何か、この場で起きたことを探る手がかりでも見つけたのだろうか。 だが、私にとってはどうでもいいことだ。私がシルバー・バレットに近づける機会ができた、それが何より重要だ。 「あッ、コラッ、待ちなさいッ!」 シルバー・バレットに近づいた私に気づき、スタッフが慌てて声をかけてくる。 だが、待たない。待ってやるものか。慣れない手付きで、私はシルバー・バレットに跨ったが――気高き馬は、大人しく乗せてくれた。 そして、走り出す。 どこか遠いところに向かって。 「シルバー・バレット……」 レース中、時間を持て余した際に馬の乗り方の本を読んでおいて良かった。……だが、きっとそれだけではない。気高き馬が、私を乗せて走ってくれた理由は。 シルバー・バレットだって、ディエゴ以外の人間を乗せるのはきっと嫌だろう。 それでも、この気高き馬は乗せてくれた。ディエゴと私の間にある何かを、感じ取ったのだろうか。 「……ありがとう、シルバー・バレット」 心地よい風を浴びながら、私は走る。 ディエゴの最後の置土産と共に。 「……あなたが唯一の置土産と言うのは、少し正しくないかもね、シルバー・バレット。だって、もうひとつ――私の中に残されたものがあるもの」 走りながら、私は呟く。 ああ、そうだ。 もうひとつ、ディエゴが私に残していったものがあることは、もう分かっている。それを感じ取ったからこそ、シルバー・バレットが私を乗せてくれたのではないかと、そう思うくらい。 私から何もかも奪ったあの男が残したもの。随分前から気が付いていて、だけど、認めたくなかったもの。 私の中の蛇が、胎内を蠢くことを感じる。私はそれに、復讐という名をつけた。 たとえ、あの人がいなくなったとしても。 この世界への復讐をしよう。 この身に宿る、復讐を。 ドロリとした復讐心が、胎内で燃え上がる。 自らの内側から感じる胎動に、私はただ、ディエゴのことを感じていた。 「シルバー・バレット。……行きましょう」 涙を拭って、毅然と前を見る。 この世界で生き続けること。この世界を、私のものにすること―― それが、あの人への復讐で。 世界への復讐だ。 私の人生ではよくあることだけど、ディエゴとの別れは最悪だった。 ああ、本当に―― 本当に、最悪だ。 だって私は、復讐を果たしたかった。 復讐を果たして別れることより、復讐が果たされずに別れることの方がずっと最悪な結末だったと、私は今になって気がつくことになった。 本当に――本当に、最悪の別れだ。 彼は、もしかしたら騎手としては最高だったのかもしれない。 けれど、法律上の父親としても、身体を重ねた恋人のような存在としても、……復讐を誓い合った存在としても、最悪だった。 大嫌いだった。憎んでいた。 だけど、今の私には、ディエゴしかいなかった。 もしかしたら、それは愛だったのではないかと、そう錯覚しそうになるほどに。 私の名前は、ナマエ・ミョウジ。 法律上、ディエゴ・ブランドーの義娘であって、彼と復讐を誓い合い、そして、私は彼と―― 古びた指輪を眺めながら、私は、新たな道を走り始めた。 スティール・ボール・ラン・レースを失格になり、行方不明扱いのまま消えたディエゴが歴史に名を残すことは、きっとないだろう。優勝は、ディエゴのものにはならなかった。 ならば――今度こそ、代わりに私が世界を手に入れてやる。 何年かかってもいい。私のレースはきっと、ここから始まるのだから。 私のゴールは、まだ先だ。決まった道はない。それでも、私が進むしかない道。 きっと、もうイギリスには戻らない。船を沈めることもしない。 その代わり、世界に復讐をするための旅をしよう。 彼の残した愛馬と共に。 私の身に宿る、新しい命と共に。