38.頂点からの転落

『世界の頂点はッ! ディエゴ・ブランドーで完結ですッ!!』  ついに。ついにやった。莫大な賞金も、権力も……全て、ディエゴは手に入れた。  彼は本当にやったのだ。五ヶ月間、ディエゴは走り続けて――そして、最後に優勝した。一番でゴールした。本当に……本当に、彼はやりとげた。  少なくとも、今だけは彼を称えてもいいと、そう思う。憎しみの中にそんな想いを抱えながら、私はディエゴのことをじっと見つめていた。 「――Dio! Dio! Dio! Dio!」  歓声が響く。ディエゴの名、通称を呼ぶコールが、観客の間に広がっていく。  ここにいる全ての人間の視線が、ディエゴに向いている。 「Dio! Dio! Dio! Dio――」  こんなコールが響く中で私が彼の名を呼ぶのは、この場では浮くのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。  私は、自分の目に焼き付けなければならないのだ。私の憎い人のことを、私のディエゴのことを。 「――ディエゴッ!!」  周りの声に掻き消えないよう、精一杯声を張り上げた。  金の髪がさらりと揺れ動き、男は振り返る。  確かに彼の瞳が、私の目を射抜いた。 「……ム?」  久しぶりに見たその瞳は、鋭くも美しい。  確かに、ディエゴだ。私が刻みつけた、私に刻みつけられた、憎い人。ディエゴ・ブランドーだ。そして彼は私の名を、ナマエという名前を呼ぶ、そのはずだ。  ……そのはずだったのに。 「君は、確か――えっと、なんだったかな」  ――え?  確かに、ディエゴはそう言った。私の方をしっかり見つめながら。私のことを、忘れるはずもない私のことを、復讐を誓い合って指輪を渡した、私のことを――  周りの人間が見えなくなる。歓声も全く聞こえてこない。目も耳もおかしくなってしまったみたい。  でも、ディエゴの姿はよく見える。感情の読めない瞳でこちらを見るあの端正な顔立ちが、見慣れたはずのその表情が、どこか別人のように思えてきて―― 「ちょっとディエゴ、どういうつもり!? 私はナマエ・ミョウジ! 私はあなたの、あなたの、あなたの――」  私は必死に叫ぶ。だが、その声は周囲の歓声に掻き消されて、彼には聞こえなかったのかもしれない。  ディエゴは私のことを気にすることなく踵を返し、ここからどこか遠いところへ向かっていってしまった。  記者会見でも受けるのか、それとも別の目的があるのか? ――彼が実際に優勝してから忘れかけていた嫌な予感が急に蘇ってきて、私は全身に冷や汗をかいた。  まるで、全てが手遅れになってしまったような。そんな気がして。  それから私は、しばらく呆然としていたが――  はっと我に返り、一度だけ深呼吸して、周囲の様子になんとか目を向けた。ディエゴは一旦席を外したが、会見のために戻ってくる。そのはずだ。それなのに彼がなかなか戻ってこないのだから、周囲がざわついている。 「Dioは? 優勝者は、どこに行ったの?」  そんなざわめきが、至るところから聞こえてくる。  ――嫌な予感。酷い気分だ。  いてもたってもいられなくなり、私は観客席から飛び出した。いつにも増して身体が重いような気がするけど、それを振り切って。  ずっと続いているこの胸騒ぎが、気のせいであればいい。  彼は優勝するのだ、優勝して私の元に帰ってくるのだ。  それから私は、彼に復讐するのだ――  全てを手に入れたディエゴ・ブランドーから、私は、彼の人生ごと全てを奪うのだから。  宛もなく周囲を走り周り、導かれるようにトリニティ教会の地下の階段に降りていくと―― 「あ、あら失礼」  先客がいた。初老の男性と、十代半ばくらいの少女。ここにディエゴはいないだろうなと思い、ここを立ち去ろうとしたが――ふと、嫌な匂いがした。  これは……血の、匂いだ。 「あの、すみませんが、ディエゴを見ませんでした? ディエゴ・ブランドー……彼を、見ませんでしたか!?」  どうして、この二人がディエゴの行方を知っていると、そう思ったのだろう。自分でもよく分からないが、直感的にそう思った。彼らは、ディエゴのことを知っている―― 「あなたは……レースの参加者や、関係者ではない」 「……えっ? ええ、そうですけど……」  慌てる私と対照的に、少女は静かに言った。そんな彼女のどこか大人びた様子に、私は思わず呆気に取られてしまう。 「ではあなたは……ディエゴ・ブランドーの、何なのですか?」  全てを見抜くような少女の瞳に、思わず怯みそうになった。凛とした、女神のような存在感のある少女だ。 「えっと、わたしは」  法律上は、彼の義娘だ。それは変わらない。だけど、それは私たちの関係には全く相応しくない名前だと、私は既にそう知っている。 「……わたしは」  ならば、恋人? まさか。私は彼と身体を重ねたが、そんなに殊勝なものではない。私たちはお互いが憎いから、お互いをお互いに刻んだ、それだけだ。そこに、少しの情は、あったのかもしれないけど。 「私はあの人の、ディエゴ・ブランドーの……」  それなら、私たちは、一体何者なのだ。  ……決まっている。復讐者。私たちは、復讐者だ。 「……。それより、彼は、今どこにいるのです」  だけど、言葉に出して答えは伝えない。これは私たちの問題であって、目の前の彼らには関係ない。  少女はじっとこちらを見つめる。男性はそんな少女を、心配そうに見守っている―― 「Dioは――」  やがて、少女が口を開いた。  その時だった。 『えー、速報をお知らせします。ニュージャージーの線路沿いに、ディエゴ・ブランドーの登録した鼻紋と同じ馬が発見されました――Dio、失格! 失格ですッ! Dio本人が戻ってこない限り、本人行方不明により弁明なしの「失格」となりますッ! 繰り返します――』  教会の外から聞こえてきた、無情な実況音声。そのアナウンスを、私は呆然と聞いていた。 「…………えっ?」  何を言っているのか、理解できない。 「えっと……この人、何を言っているの? ディエゴが、失格? まさか、そんな。彼は優勝したはずで。今はどこにいるか分からないけど、すぐ戻ってくるはずで――」  狼狽える私を、少女は哀れむような瞳で見ている。  そして。彼女は何かを宣告するように、毅然と告げた。  それはまるで、死刑宣告のように。 「ニュージャージーの線路沿いに行けば、きっと分かるわ……あなたがDioと繋がっていると言うのなら、きっと。『あなたの探しているディエゴ・ブランドー』の行方は」  何故、彼女がそんなことを知っているの?  その疑問は、私の中にはあった。だけど、今の私には、重要ではないことだ。  私にとって重要なことは、ディエゴの行方、彼が優勝すること。それだけだ。  ディエゴが失格だなんて、そんなの。あまりにも馬鹿げている。そんなことは、あってはならない。私の復讐は、彼の優勝から始まるのだから。  だから、ニュージャージーへ向かおう。そこで何が待っているとしても。  左手の指輪が、導くように光った。