33.父と蛇

『我が国の競馬界の貴公子Dio,2nd.STAGEの覇者へ』  約三週間後――新聞一面のその見出しを目に入れ、私はそっと息を吐いた。やっぱりなと、ただそれだけ思った。  だが、今回こそディエゴが一位であったが、やはりこのレースは一筋縄ではいかないだろう。毎回彼がトップになる、というわけにもいかなそうだ。  だが、それでもいい。最終的に優勝さえ勝ち取ってくれれば、それで。  レース結果の賭けに、騎手たちの人気。全米中だけでなくこの英国も、否、世界の全てがかなり、このレースの話題で盛り上がっているらしい。裏で大金も世界を巡っているようだ。  特に、イギリス国籍でありながら上位である者はディエゴくらいなものだから、この国の新聞はかなり、ディエゴに注目している。  だが――賭けにも騎手たちの人気にも、私は興味はない。くだらないとすら思っている。レースの内容も重要ではあるが、今の私には、もっとずっと気になることがあったのだから。  私の、父親。  私が探していた、私とディエゴに共通する、憎い男。他でもない私の父親。その男らしき目撃情報があったと、派遣した使用人のひとりから連絡があったのだ。  貧民街の女――私の実の姉妹のことは、正直なところ当てにならないと思っていた。だが、その女の付近を調べさせた際に、驚くべき情報が入ってきたのだ。  近頃になって、彼女の働く娼館に変装して出入りすると噂になっていた、ある男の情報が。  使用人から連絡を受けた私は、考えるより先に家から飛び出していた。……当然、以前ディエゴから受け取った、古びたドレスと仮面を身に着けてからの話だけど。 「あの街に行って頂戴」  馬車を呼び寄せて乗り込み、そしてそれだけ言う。言葉足らずの命令だったが、それでも伝わったらしく、御者は黙って馬車を走らせた。  馬車に揺られながら、私はぼんやりと、まだ見ぬ父親のことを考え始める。馬車の窓の外の風景は、まだ昼間なのに薄暗い。 「何を考えているのかしらね、あの男は。……私の、父親は」  今まで自分の手で育ててきた方の娘すら捨てた上に、その娘が働く娼館に出入りする。何のつもりなのかは知らないが、穢らわしいことこの上ない。  それとも、遠くから娘の様子でも見に行っている、とでも言うつもりだろうか? 娘の無事を、密かに確認しているとでも? そんな殊勝なことを、二人の娘を捨てた男がするだろうか?  私のことは、探そうともしなかった癖に。  気が晴れないままではあったが、馬車はいつの間にか目的地に到達した。到達してしまった。私はこれから覚悟を決めて、この町に入らなければならない。  この街に入るのは、三度目だ。馬車から降りて、相変わらずの酷い匂い、この世の地獄のような景色に顔を顰める。  だが、以前のような恐怖心はない。周りの男たちにじろじろと見られているような気はしたが、堂々と振る舞う。今回は、懐にナイフを忍ばせてきた――たとえ誰かに襲われたとしても、ただでやられたりしないように。  周囲を警戒しながら、私は歩き始める。この街に派遣した使用人から、彼女が働いている娼館の場所は聞いている。  今その場に行ったところで父親に会えるという保証はどこにもないが、それでも。私はきっと、私と血の繋がったあの男に出遭えるだろうと、そんな確信はあった。  あくまで、漠然とした予感ではあったけれど。  そして、娼館の近くまで無事に辿り着いたところで――ちょうど、その建物から出てきた男を見かけた。  ――いた。  なんという偶然。否、これが運命というものだろうか。  顔も知らないはずの初対面の男を、私の脳は「父親」だと、確かにそう認識した。 「ごきげんよう、『お父様』」  その男に、優雅にそう微笑んでみせる。だが、男は怪訝そうな顔をしていた。  ああ、仮面で顔が見えないから分からないのかしら? 私が一体、何者なのか。  だから私は、そっと仮面を外した。男の瞳が、しっかりと私の顔を捉える。  一瞬の沈黙。  それから――怪訝そうな表情だった男の顔色は、みるみるうちに青ざめていった。 「おまえ……おまえッ! おまえはオレの娘じゃない、そのはずがない!」  突然、男は取り乱した。その反応は逆に、彼自身も私のことを理解したということだった――私が、この男の実の娘であるということを。 「……そうね。私は確かに、母親が死んだあとにあなたに捨てられて、貧民街に堕ちた、そこの娼館で働いているあなたの娘ではないわよ」  私は静かに真実を言う。男の罪を、世界に宣告するように。 「私は赤子のときに川に捨てられた、あなたのもうひとりの娘よ」  捨てられた娘。双子が生まれたが、貧困が苦しく、片方川に捨てられた娘。それから貴族に拾われて育てられた、もうひとりの娘――  彼は私のことを、そもそも覚えていたのだろうか? もしかしたら、今の今まで忘れていたかもしれない。だが、今になって思い出したとしても、それはそれで構わないと思った。  滑稽なほど狼狽えて顔面蒼白になっている男の顔は、少し哀れで、だが愉快な表情だと、そう思った。 「ナマエ・ミョウジって呼んで。私を捨てたあなたの付けた名前じゃあないわ。私のことを拾って、育ててくれた人が付けてくれた名前だから」  義母のことを思い出す。義母は確かに、私のことを愛してくれていた。その愛を仇で返してしまったのは、私だけれど。  最も、最初から捨てるつもりだった私の名前を、目の前の男が考えていたかどうかは甚だ疑問だが。 「ゆ、許してくれッ!」  狼狽えていた男は突然、私に懇願するように跪いた。その彼の言動を、私は冷えた心で眺める。 「……何を?」 「し……仕方なかったんだよッ! カネもない家だ、子どもはひとりだけ作ろうって、最初からそう言ってたんだ! なのに、産まれてきたのは二人だった……だから片方だけ育てて、もう片方は、せめて他の家に拾われて生きてほしいって、そう思っていたんだ……」  本当に謝るつもりがあるのだろうか。懺悔するにしても、悔い改めているようにはとても見えないが。 「いいドレスに、仮面だ。そのドレス、どこかで見たことがあるような気もするが……いい家で育てられたんだろう? オレの家で育てられるより、ずっといい生活をできたんだろう? だから……」 「だから、恨むなとでも?」  媚びるように私を見上げる男に、冷たく言い放つ。この古びたドレスが、本当にいいドレスに見えるのだろうか。まあ、そんなことはどうでもいいけど。  ふ、と思わずため息を吐いた。  この男と会話して、改めて感じた――私はこの男に復讐したい。そうしなければならない。この男のことを、血の繋がった実の父親のことを、許せるはずがない。 「私、別にあなたのことを恨んでいないわ。いいえ――あなたのことを赦してあげる機会を、与えたいと思ったの」  だから私は、嘘を吐いた。  許すつもりなんて、ない。父に復讐するため私は、平然と嘘をつく。復讐のため、父を思い通りにするために。あなたを赦すと、そんな嘘を。 「むしろ、私、母が――育ての母が死んで、天涯孤独の身になってしまったの。だから探していたのよ。あなたと人生をやり直したいって、そう思ったからよ」  嘘だ。嘘を、平然と吐き続ける。  復讐のために、私の中の蛇が、目の前の男を睨めつける。 「え……?」  男は呆然と私の顔を見上げる。そんな彼に私は、自分の左手を見せた。 「ねえ……あなたの知らないことを言うわ。私、誓った人がいるの」  左手の薬指に嵌ったくすんだ色の指輪に、男の視線が向かう。その瞬間に私は、その名前を口にした。 「ディエゴ・ブランドー……彼のことは、知っているでしょう? 彼も、あなたに会いたがっているわ」  ディエゴの名前を聞いた途端、男の目の色に絶望が滲んだ。