32.勝利への片道切符

 そして――出発の日は、あっけなくやってくる。 「また会いましょう、ディエゴ・ブランドー」  見送りの船の前で。そう言いながら、私は背伸びをして、彼の頬にそっとキスをした。  頬への口付けは、親愛と裏切りと、そして別れの合図。 「……優勝はこのDioのものだ。それを忘れるな、ナマエ・ミョウジ」  彼は私のことを見下ろし、それだけ言った。その瞳の色を、静かな野望に満ちたその表情を、私は忘れることはないだろう。ただ、そう思った。  最後にちらり、とお互い目配せして、ディエゴは彼の愛馬と共に船に乗り込んでいった。  船が遠ざかっていく。大西洋の向こう側、遥か遠い米国へと。愛馬と共に彼が船に乗って旅立つ瞬間を、私はぼうっと見送った。そうするしかなかった。  ゴール、優勝、復讐の終わり。それを見据えながら、私は海の向こう側へと往く船を眺める。  アメリカ大陸。馬の上で、あなたはどんな世界を見るのだろう。私の知らない世界。その、新しい世界で。  過去の憧憬すら、私は彼に奪われてしまった。それを取り返すには、優勝した瞬間の彼に復讐すること。それしかない。  だからきっと、また会える。復讐故に。それが運命なのだと、そう信じた。  帰宅後、私は新聞でSBRレースの情報を確認する。九月二十五日――レースが始まる日は、その時だ。  北米大陸横断レース。サンディエゴからニューヨーク、行程六千キロメートル。想定日数分およそ六十~八十日。そして、優勝者の賞金は五千万ドル。  私は新聞記事にさらに目を通す。優勝候補として主に名を挙げられている人物は、ドット・ハーン、マウンテン・ティム、ウルムド・アブドゥル、そして―― 「……ディエゴ・ブランドー」  当然のように彼の名前があることに、どこか複雑な気持ちになる。イギリス競馬界の貴公子。帝王Dio。彼の名は既に、世界中に轟いてしまっている。  既に競馬界の貴公子と、帝王Dioとまで呼ばれている男が優勝してしまったら、彼は本当にこの世の頂点に立つことになるのだろう。 「彼は、絶対に優勝するわ」  自分に言い聞かせるようにそう呟いた。  だって、そうじゃないと、私は彼に復讐できないから。  レース参加者でもない私にできることは、少しだけだ。  私の父親を探すことと、そして、レースに出るディエゴを、ほんの少しだけ援助すること。  全ては、復讐のために。切り裂かれた私の誇りを、取り戻すために。  もはや私には仕えず、ディエゴにだけ仕えているつもりであろう使用人たちは、それでも私の言うことは聞いた。これはディエゴのためだ――そう言えば、彼らは動く。ミョウジ家の財力と影響力は、それだけあるということだ。  なので私は、ヨーロッパとアメリカそれぞれに使用人を派遣し、この館にいながら電話で指示を出すことに決めた。  私の父親を探すため、そして、レースに参加するディエゴを援助するために。  事前にお金を払って、彼の食料と、医療品、防寒具などを予約。そうすればレースのスタッフが、レースの途中途中でディエゴに渡してくれるだろう。それを受け取るかどうかは、必要に応じてディエゴが決めればいい。それの使い道をどうするかまでは、私の知ったことではないから。  私がわざわざこんなことをしなくても彼は優勝してしまうだろうが、それでも。私が彼に優勝してほしいと、してもらわなくてはならないと、そう思っていることは事実だったから。私は、そうせざるを得なかった。  そして――九月二十六日。レースが始まって、次の日のことだ。レースの細かい日程自体はあまり気にしていなかったので、レースの開催日時が過ぎていたことに、この日になってようやく気がついた。 「ディエゴ」  慌てて新聞を確認すると、レース開始時の様子と、1stステージの結果、そして騎手たちの人気が順に載っていた。サンディエゴのビーチから、彼らはついに飛び立ったのだ。  トップ通過者がゴールした瞬間の写真も載っている。その中には、しっかりディエゴの姿もあった。  白黒の写真越しの、見慣れた金髪。馬に乗って走る時のみ見せる、本気かつ真剣な表情。大西洋の向こう側、私の知らない土地でも、彼は当然のように愛馬に乗って走っていた。 「…………」  その写真の姿を見て、思わず息を吐く。私の知らない土地でも、ディエゴはやっぱり、ディエゴだったと、何故かそう思った。  しかし新聞を読むうちに、えっ、と思わず声が漏れ出た。ディエゴの順位は二位であるそうだが、実際の着順は三位だったらしい。その事実に少々驚いてしまう。彼が最初のステージで、一着を勝ち穫れなかったなんて。  だが、段々と無理もないと思えてきた。  写真からも伝わってくるのだ――このレースに参加する全員が、優勝を勝ち穫ろうとしていることが。いくらディエゴでも、一筋縄ではいかないのだろう。何せ、世界に通用するレースなのだから。  だけど私は、正直なところ、あまりレースの内容に興味はなかった。難しいレースでも、最終的にディエゴが優勝するのだろうと信じていたし、最後に優勝してくれさえすればいいと、そう思っていた。だから私には、途中の結果は正直どうでもいいことであった。  だが、念の為に新聞記事を注意深く読む。  一位はサンドマンという男。ディエゴは二位だ。 「……ふうん。走ってレースに出ている人もいるのね」  ショートカットの効果か、他の効果か。ともかく、ディエゴが自らの脚のみで走るアメリカ先住民族に負けたことは事実らしい。  紙面をさらによく見れば、レースの着順自体はジャイロ・ツェペリという男が一着であったが、ペナルティを食らった結果、二十一位に落とされたらしい。  ディエゴの最初のレースは、三着。彼にとっては、あまり調子のいい出だしとは言えないだろう。  だが、私にとってはあまり気にならないことだった。彼のことだ、今回負けたことで復讐心を強め、次のレース以降でさらに強くなってくれることだろう。  それに。最後に優勝さえしてくれれば、その瞬間に蹴落とすことができれば、私はそれでいい。  ディエゴへの、世界への復讐方法は、少しずつ考えている。全ての終わりに、目を向けながら。 「ここがゴールではない……そうでしょう?」  私の言葉に応える男は、ここにはいない。  それでも、最終的にあの男は応えるだろう。レースの結果という、揺るぎない答えをもって。祈るような気持ちで、そう思った。  だって。優勝は、ディエゴのものだもの。  彼がそう言ったことを私は、忘れてなんていないから。  忘れるつもりも、ないから。