復讐心

 ある日、何気なく、図書室に行ったときのこと。 「…………」  ディエゴ・ブランドーが、静かに居眠りしているのを見かけた。  珍しいこともあるものだ。  そう思って、思わずまじまじと見てしまった。普段、彼がこんなに無防備な表情をしているのなんて、見たことがない。  腹が立つほど美しい顔立ちの彼も、こうしていると子供みたいだ。 「黙ってたら綺麗なのに」  彼の寝顔を見ながら、思わずため息を吐いてしまった。  しかし、私はわかっている。ここで黙っていないのがディエゴ・ブランドーなのである、と。  それだけではない。私は既に、この男に人生を滅茶苦茶にされている。 「……まったく」  そう思うと、なんだか腹が立ってきた。目の前にいるこの男のせいで、私は。  そして、ふと思いついた。  寝ている間に、彼に悪戯の一つでも仕掛けてやればいい。その完璧に見える仮面を、剥がしてやればいい。  大層な悪戯である必要はない。寝ている間、という誰もが無防備になる瞬間に、何か仕掛ける。それでも、彼のプライドを著しく傷つけることには違いないだろう。  それでいい、それで十分だ。これは、ちょっとした悪戯であり、復讐だ。  鼻を明かされた瞬間の彼の表情を思い浮かべて、私は思わず笑みを浮かべた。  ――とは言っても、ここで何をするのが正しいのだろう。  以前、首元に噛み付いてやったことはあった。しかし、同じことをするのも芸がないし、痛みで彼のことを起こすことが目的なわけではない。もっとささやかで、もっと彼の仮面の下に直接触れて、それをぶち壊すような、そんなものがいい。  ……そうだ。  彼に顔を近付けながら、私は思い立った。  以前までの私なら絶対にしなかったであろう選択。しかし、私は既に、以前までの私ではない。  ――彼は、自分の意思で誰かと唇を重ね合わせることは、おそらく抵抗ないだろう。手段のために、自分の身を武器として、あるいは凶器として用いる。そうして私は以前、まんまと唇の純潔を奪われた。  しかし。この男だって、自分の意志なしに唇を奪われることは、プライドが傷つくだろう。  ――誰かの唇を奪うことは、それに何かの意味があれば躊躇なく手段として用いる。しかし、合意なく誰かに襲われることは、この男にとっても屈辱であるに違いない。  そう考えると、私も彼も、同じような存在のように思えてきた。  自分の意志で接吻するのは構わない。けれど、自分の意思なしに接吻するのは誇りが傷つく。  その点では、あなたも処女のようなものだ――そう思い、私は彼の顔に近づき、今まさに触れんとした。  その時だった。 「フン。寝込みを襲うなんて、随分淑女らしからぬことをするようになったじゃあないか」 「――ッ!」  一瞬、時が止まる。思わずのけぞってしまった。その瞬間の私には、何が起こったのかわからなかった。  少し経って、ディエゴ・ブランドーがその顔を上げていたこと、そして美しくも鋭い瞳で睨まれていたことに気がついた。 「……起きて、いたの」 「少し前からな」  思わずふらついた私など意に関せず、彼は小さく欠伸をする。  失敗した。それだけはわかった。ささやかな復讐は、果たすことができなかった―― 「フン、まさか君から求めることがあるとはな――お望みなら、今からでもキスしてやろうか?」  そして、彼はニヤリと嘲笑う。その瞳に辱められたような気がして、唇を噛んだ。顔に熱が集中したことが、嫌でもわかった。  彼は、私が本気でそれを望んでいないことは、十分知っているはずなのに。私が何を意図したか、彼にはわかっているはずだ。わかっていながらこうやって言ってくるのだから、本当にたちが悪い。  しかし、私は言い返さなかった。彼の挑発に、あえて乗ってやろうと思ったからだ。  そうだ。まだ、契機はある。悪戯は、嫌がらせは、復讐は――まだ終わっていない。  私は思い切って、彼に駆け寄ってみた。  そして、身長差を埋めるように、ちょっぴり背伸びして――不意打ちで、キスしてやった。 「!」  一瞬だけの時間。私はすぐ離れる。少し驚いた風な顔の彼に、私は微笑んでみようとした。 「……突然唇を奪われた感想はどうかしら、お義父さま?」  微笑んだつもりだったが、うまくはできなかったかもしれない。  だが、それでいい、これでいいのだ。彼が今、どんな心境になっていようと、どんな顔をしていようと――彼のやたら高いであろうプライドに傷をつけることは、できただろう。  私は急いで踵を返し、何か余計なことを言われる前に小走りで立ち去った。少しの高揚感を、胸に抱きながら。  彼は、追いかけてはこなかった。そんなこと、ずっと前から知っていた。 「……チッ」  ディエゴ・ブランドーはほんの少しだけ顔を歪めた後、軽く口を拭った。  彼女の後ろ姿を、忌々しげに眺めながら。