あれから、驚くほど事態は動かなかった。 ディエゴと街に出る。彼に誘われてレースを見に行く。義母と少しずつ、ぽつぽつと会話する。 だが、停滞しているような毎日も、日々終わりに近づいていく。それは、まさに運命のカウントダウンだ。 ふと思い立って彼女の誕生日まで数えてみたら、ちょうどあと百日だったのも、何かの因縁だろうか。 私にとっての、一見平穏な毎日は――今日も、終わろうとしていた。 「なあ」 「……何よ」 久しぶりに。……彼がこの屋敷に来た、最初の頃以来ではないだろうか。彼が、私のいる部屋の扉をノックした。そこから扉を開けることなく、扉越しに独り言のような会話が紡がれていく。 「別に、大した用があるわけじゃあないがね。ただナマエ、ふと思ったんだよ――『君、随分と変わったじゃあないか?』」 「……何を言うかと思えば」 私は、扉の方を見もせずに呟いた。そんな私に構うことなく、ディエゴは淡々と言葉を続ける。 「いや、馬鹿にするわけじゃあないんだが。正直なところオレは、君はもっと迷うもんだと思っていたんだよ。温室育ちのお嬢様が、オレから与えられた選択肢をすぐに決められるわけないってな。……だが君は、思っていた以上に早く、迷っている素振りを捨てた。……何か企んでいるのか、それとも、現実逃避をしているのかは知らないが」 現実を見ていない、なんて。失礼なことを言う。私はちゃんと――考えた上で、道を選んだのだから。 「……私は、私が正しいと信じる道を決めた。その上で、私は道を決めたの」 だから私は、静かに言った。自らの決意を、彼に見せつけるように。 「あの人に『嫉妬』していた君が、正しい道だと? なんだかそりゃあ、笑える話ってやつだな」 「嫉妬、ねえ……」 鼻で笑うような彼の言葉に、そういえば以前にそんな話もしたなと、ただそう思った。 私は、義母に嫉妬しているのではないかと。性格はともかくとして、顔も整っていて、騎手としての腕も最高で、外面のいい男――そんな男に表面的には愛されて、彼女が『幸せ』な結婚をしたことに、私は嫉妬していたのではないかと。 ディエゴにそれを指摘されたあの時の私は、それを認められなかった。――だけど。 「そうね。確かにあの時の私は、自分に嘘をついていたのかもしれない……彼女に、嫉妬していたのかもしれないわね」 意を決して、その言葉を口にする。その瞬間――この気持ちを認めて、少し心が軽くなったような気がした。 彼がこの家に侵略し始めた頃には、確かに、私の中にこんな感情があったかもしれないと、そう思ったのだ。認められていなかった私は、自分に嘘をついていたのではないかと。 だけど。 「でもね――今となっては、そんな感情も存在しないわ。私がどんな選択をしようと――三ヶ月後には確実に、この時間は失われる。私がどんな選択をしても、私はどうあがいても不幸になる。だけど――お義母さまにとっては、もっと不幸な結末になる」 扉の向こうのディエゴは返事をしない。それならそれでいいかと、私は決意表明するように言葉を続ける。 「だから、せめて。私は、あの人に恩返しをしたいとも思っている。それが、他人から見れば、恩を仇で返すように見えていたとしても。そして私は、彼女にせめて今を楽しんで欲しいし、私も――今を楽しむつもりなの。もう、悩むのはやめたわ」 扉の向こうにあるのは、またもや無言だけだ。それでも私は、構わないと思っていた。 「私が正しいと信じていたものは、砕かれた。それならまた、新たな正しいと信じる道を突き進むだけ。たとえそれが、綺麗な道でなかったとしてもね。……もう、私には必要ないの。無垢な体も、心も。――そして私は、もう間違えないわ」 ふう、と息を吐く。自分の運命の道を見つめながら。 その茨の道は、それでも私にとっては正しい道なのだろうと、そう思いながら。 「そうか」 そして。しばらくの沈黙の後に聞こえてきたディエゴの声は、静かなものであった。扉の向こうからは、否定の声が聞こえてくることはなかった。 「それなら、君の好きにしたらいいさ」 それだけ告げて、彼の声は聞こえなくなった。しばらくして扉を開けると、ディエゴの姿はどこにも見えなかった。 彼は、本当は何をしに来たのだろう。私の本心を探るためか。……確かに最近は、彼と話す機会があったとしても、当たり障りのなく、表面的には『楽しい』話題だけを提供して、お互いの心のうちに踏み込むような真似は、していなかった。 それとも――私は、引き出しの中の『それ』の存在を思い出す。一ヶ月少し前に、あの呪われた街で手に入れた『あれ』の存在に――彼が気づいてしまったとしたら? 彼は、必要がなければ淑女の部屋に上がり込むなんてことはしないだろうが、必要があればやりかねない。彼は、目的のためなら、汚いことも卑怯なこともなんだってする男だと思う。その上で、彼のプライドを損ねるような真似は、しないのだろうけど。 私は慌てて引き出しを開いて、『それ』を確認した。……ある。私が入れたとおりに、そのまま、ある。誰かに荒らされた形跡はなくて、思わずほっとする。 だが――その存在感に、あの街で手に入れて以来封印していたそれの強さに、息を呑んだ。 私は、決行の日に、きちんと自分の思った通りの道に進めるだろうか。……もし、気づかれたら? もし、失敗したら? そんな迷いを封じ込めるように、思い切り引き出しを締めた。 私は、大丈夫。あの男に復讐して、義母の幸せを奪わずに、私自身の誇りも汚さない――その道に向かって、進んでいくしかないのだ。