あれから数日――私と義母は、二人で街に出ていた。彼女は退院直後ではあるが、そんなに体調も悪くないらしい。 ……彼女とこうして外に出るのは、いつぶりだろう。少なくとも、彼女がディエゴと結婚してからは一度もこうしていなかったし、彼女が結婚する半年ほど前からも、こうして二人で外に出る機会はなくなっていたように思う。 小さくなった彼女の身体。毎日のように彼女の姿は見ているとはいえ、こうして並んで歩いていると、彼女の老いをひしひしと感じる。もちろん、私が幼い頃から、老婆は老婆であったわけだが――最近は、彼女の身体が酷く脆くなったように感じていた。 しかし、あくまで彼女は幸せそうだ。愛する夫。愛する娘。夫が妻に真実の愛を向けていないことも、娘が夫に運命の選択を迫られていることも、彼女は何も知らない。知らない上で、そのまま彼女には幸福に過ごしてほしいと思っている。 ――彼女の幸福を摘み取るのが、私だったとしても。せめて、『あの日』までは彼女に幸福に過ごしてほしいと、私は身勝手にもそう思っていた。 「うふふ、ナマエったら見てよ! この指輪、ディエゴが贈ってくれたのよ――」 「……良かったわね、お義母さま」 だから私は、彼女とこうして、並んで歩きながら穏やかな会話を続ける。彼女の会話の大半がディエゴに関するものだったが、それでも私は、苛立ちなんて感じていなかった。 憐れみに近い感情。それでいて、できれば彼女には何も知らないまま、幸福に過ごしてほしいという傲慢。罪に塗れているのは私だけで、彼女は愚かではあるが、罪は無い。彼女はただ、捨て子だった私を拾って育て、私が大人になったタイミングで、孫ほども歳の離れたディエゴを愛してしまった。それだけだ。 たとえ、夫の愛に騙されているだけだったとしても。娘に、恩を仇で返されるような結末になったとしても。 今の彼女は、あくまで幸福そうだった。 「ねえ、ナマエ。最近ハンスさんとはどうなの?」 最近の義母の会話の種は、主に二つ。 一つ目は、自らの夫、ディエゴの話。……義母は、私とディエゴが昨日二人で出かけたと聞いても、それも『親子の会話』だと思っているのか、微笑ましい目で見つめられた。彼女には、歳の離れた夫と、夫とよほど歳の近い、夫とも血の繋がっていない娘が二人で会話していたとしても、嫉妬するという発想すらないのかもしれない。下手に騒がれるよりはずっといいと思うけれど。 そして二つ目は、娘である私の婚約相手だと思い込んでいる、あのハンス・ポップの話だ。 娘の縁談が既に破談していることなんて、彼女は知らない。義母は全てが上手くいっているのだと、そう思っている。――彼女は自らの命が、たとえ私が何もしなかったとしても、余命一年ほどであることすら――知らない。 「……ええ、上手くいっているわ。なにもかも、ね」 彼女に嘘をつくのも、もう慣れた。慣れたを通り越して、飽きた。これから私は、あれから一度も会っていない男とのエピソードをでっちあげることになる。そろそろネタ切れのようなものなのだけど。 さて、今日はどんな嘘を話そうか。そう迷っていると――義母は、ふと寂しそうな顔をした。 「……ナマエ。あなた、無理してない?」 それは本当に意外で、予想外で、彼女の口から飛び出た言葉だとはにわかに信じられなかった。 「……お義母さま、どうしたの? 急に」 「いえ、その――本当に、なんとなく、なのだけれど」 彼女は何気なくといった調子で、私の顔を見つめる。その瞳は純粋に、心配するような色を見せていた。 「最近、ナマエが、思いつめているように見えたから」 その言葉に、私は息を呑む。 愚かな老婆だと思っていた。何も知らない、幸福な女のように見えていた。 だけど――彼女は、何かに感づいている? 「ナマエ。……ハンスさんとのことも、ディエゴとのことも。私は少し、あなたを焦らせてしまったかもしれないわね」 私が言葉を紡げないでいるのに対し、彼女はゆっくり、言葉を続ける。聞き慣れたはずの彼女のしゃがれ声は、心地よいもののようにも、不快なもののようにも思えた。 「あなたは、あんまり無理しなくてもいいのよ。もちろん本音としては、若いうちに結婚して、幸せを掴み取ってほしいとも思っているわ。だけど……あなたが早く結婚することだけを気にして、幸せになることが二の次になっているのなら、私は悲しいわ」 彼女の言葉は、何も知らない故に、的はずれなことを言っている部分もあった。……私の悩みが、義母が若すぎる夫と結婚したことと、私の婚約相手だと思い込んでいるハンスとの関係が実は上手くいっていない、とでも考えているのではないだろうか。実際は、そんな次元の話ではなくなってしまっているのだが―― 「私はね、ナマエ。あなたに幸せになってほしいだけなのよ。愛に出会って、幸せを取り戻した私のように。……だからあなたが悩んでいるのなら、迷っているのなら――私に言ってくれてもいいのよ」 「お義母さま……」 静かに微笑む、私の義母。それは独り善がりな言葉でもあったが、彼女は私のことを心配してくれているのだと、私の幸せを心から願っているのだと、そう感じ取ることができた。たとえ血が繋がっていなくても、彼女はやはり私の母親であるのだと、そう実感した。 ――だが、それを知って、なお。 私は、彼女を欺き続けることに決めた。 「ありがとう、お義母さま。心配させたのならごめんなさい、だけど――私はもう、迷ってなんかいないわ」 せめてあなたには、最後の日まで、幸せに暮らしてほしいから。だから私は、あなたには何も伝えない。最後のその日が来てしまう、その瞬間まで。 そんな想いを込めて微笑むと、義母は「心配しすぎたかしらね」なんて、心から安心したような顔で笑うのだった。 ……きっと彼女は、何かに気付くのが遅すぎた。または、私に声をかけるのが遅すぎた。 彼女に、もっと早くこの言葉をかけられていたら、私は別の道を模索していたかもしれない。 毒の小瓶の重みを思い出しながら、私は目を伏せる。 私の顔、義母の顔、ディエゴの顔。それらが浮かんでは、虚空へと消えていった。 その幻影を追うつもりは、私にはもうなかった。