ある夕暮れ時のこと。 老婆は、窓の外を眺めながら佇んでいた。物憂げな表情で、彼女はため息を吐き出す。 そんな老婆に、男が一人、そっと近づいた。 「どうしたんですか、愛しい人」 男――ディエゴ・ブランドーは、自分の妻である、六十三も歳上の老婆に優しげに囁いた。 「……ああ、ディエゴ。あの子のことよ」 男の姿に気が付き、老婆は振り向く。男の本性など知らない老婆は、一度微笑んだ後に、愛しい夫に対して返事をした。 「あの子? ……ああ」 ディエゴは少し逡巡した後、納得したように頷いた。 あの子。それは、老婆の養女であり、戸籍上は男の義娘でもある女のことだろう。 最も、二十歳であるこの男は、自分と年齢がさほど変わらない彼女のことを、「娘」などとは認識していなかったのだが。 「彼女が、何か?」 ディエゴは何気ない風を装って、柔らかに聞いた。すると老婆は、全く疑うことなしに、素直に悩みを吐き出してしまう。 「あの子がね、いつも舞踏会で良い男の人を見つけてこないから、心配で……。今度こそ、上手くいくと良いんだけれど」 「……彼女のことを、想っているんですね」 ディエゴは老婆の悩みを知り、内心小馬鹿にしながら告げた。彼女の悩みは、もう二度と解消されないものであることを理解していたからだ。 しかし、老婆はそれには気が付かずに、もちろんよ、と呟いた。 「あんなに結婚に憧れて、花嫁修行も頑張っていたのだもの。折角だから、あの子には幸せになって欲しいのよ」 その言葉に、嘘があるとは思えない。老婆は、年齢のこともあり、若い男の魅力に目が眩んでしまっているが――自分の「娘」のことを想う気持ちは、おそらく、昔から変わっていないようだった。 だからこそディエゴは、老婆のことをこっそり嗤った。 「きっと、彼女は大丈夫ですよ。彼女なら、うまくやっていけます」 自分の存在こそが、ディエゴ・ブランドーの存在こそが――老婆と娘の運命を、根本から捻じ曲げてしまっていたのだから。 「そう、かしら」 老婆は、気がついていなかった。 既に捻じ曲がってしまっている運命は――もう、取り返しのつかないところまで来てしまっていることに。 「そうですよ」 妻に対しては、どこまでも甘く囁きかけていたが――ディエゴは内心、この親子のことを嘲笑していた。 勿論、嘲笑した「親子」の中に――自分の存在は入っていない。妻のことも、義理とはいえ娘のことも、彼は自分の家族だとは認識していなかった。 ディエゴが発する、慰めの言葉。それは偽りのものでしかなかったが、老婆がそれに気がつくことはない。 むしろ、優しさすら感じられる彼の言葉に、少し安堵したのか――老婆はそっと、少女のように微笑んだ。 もうすっかり安心したのか、老婆は自分の夫である男に対して、肩の力を抜いて問いかけた。 「そういえばディエゴ、私の誕生日って教えたかしら?」 「……ええ、もちろん知っていますし、覚えていますよ。楽しみにしていてくださいね」 「あらまあ、嬉しいわ! それじゃあ、楽しみにしているわね」 老婆は少女のように頬を赤らめたが、ディエゴには滑稽なものにしか思えなかった。 ディエゴは知っている。 ちょうどその日、「娘」の選択によって、老婆とその養女の運命が、決まるのだと。 ディエゴは知っている。 その運命は、どれも、老婆にとっては幸福なものとはなり得ないのだと―― ――さて、この家はどう転がり落ちるのだろうか。 ディエゴ・ブランドーは、老婆に対しては爽やかさを感じさせる笑顔を見せながら――内心では、どこまでもどす黒い野心を滾らせていた。 さながら、獲物にどうやって食らいついてやろうか見定める、飢えた蛇のように――