「お、このコーヒー、なかなかじゃあないか。いい香りがする――この店に入ったのは初めてだが、思いの外アタリだったようだな。なあ、君も飲んでみろよ」 「……、まあ、確かに悪くはないわね」 次の日。私たちはカフェテラスで、静かにコーヒーを飲んでいた。 周りの様子は、私の目には入らない。同時に、私達の様子も、周りの目には入っていないのだろうと理解していた。 私に声をかけたのはディエゴの方なのに、彼は何も語ろうとしない。その無言の時間がなんだか不気味に感じて、私は結局、自分から口を開いていた。 「……ねえ。あなたが、何のつもりで私を連れ出したかは、知らないわ。私が何を考えているのかを探りたいのかもしれないし、私の考えを固めさせようとしているのかもしれない。……確かに、私を綺麗な街に連れ出せば、私はあの薄汚い街に堕ちることを嫌がるでしょうしね」 自分のことなのに、どこか他人事のように言った。 ディエゴは、ちらりとこちらを見てくるだけで、何も言わなかった。ただ、喉にコーヒーを流し込むだけだ。 私は言葉を続ける。 「その上で、ねえ、ディエゴ。私はもう、気持ちを決めたの。あなたの誓いを信じて、『その日』まで私は行動を起こさない。あなたが誓うというのなら、私も誓うわ。『私は、その日まで行動を起こさない』」 ――オレは彼女を、殺さない。 その言葉に偽りがないのなら、今の私にとってはそれで十分だ。私は『その日』、行動を起こすのだから。 ――誓ってやってもいい。君の手で彼女を殺すのなら、オレは全てを話す。 「…………」 彼の言動を思い出し、長く息を吐く。そして、もうひとつの決意表明をした。 それは――今まで、自分の中でも、しっかり定まっていない決意だったが――声に出すことによって、宣言することによって、私のこれからを完全に決めるものとなった。 「その代わり、私はその日までを――精一杯、楽しむことに決めたの。だって、その日に何が起きようと、私の未来は変わってしまうのだもの」 そう言って微笑む私を、ディエゴは無表情のまま見つめてくる。その眼光の鋭さに怯みそうになったが、そうも言っていられない。 ――何が起きたとしても、私の未来は変わってしまう。それは、私が『その日』にどんな未来を選ぶのか知るはずもない、彼にとってもそうだろう。彼の用意したどの結末を選んだとしても、私は終わってしまうのだから。 捨てられて娼婦となって野垂れ死ぬか、自殺するか、それとも恩を忘れて義母に毒を盛るか。……どの結末を選んだとしても、私が『その日』以降を楽しめる気分になれるはずがない。 だったら、せめて『その日』までは。 私が選ぶ選択肢は、彼の用意した選択肢とは少し違うけれど、それでも。私はそれでも、『その日』より先の未来を楽しむことなんてできないから。 だからせめて、残りの人生を楽しんで過ごす。それが、私の選んだあと五ヶ月間だった。 「でも、楽しむと言っても、私にはお友達も、恋人候補も、何もかもいなくなってしまったわ。それにお義母さまも、なかなか外に出られるような状況ではない――だからディエゴ、あなたが少しは付き合ってくれるわよね?」 だから私は、図々しくも『お願い』する。彼が『その日』までは私に手を出さない、義母にも手を出さないというのなら――逆に言えば、それまで私は、好きなように過ごすことができるということなのだから。 それが、私から多くのものを奪っていったディエゴ・ブランドーという男への――ささやかな復讐、または嫌がらせであった。 「……ナマエ。君、変わったんじゃあないか?」 本当にそう思っているのかは読み取れない瞳でディエゴは言う。 だがその後、彼は軽く笑った。それは馬鹿にしているような口調でもあったが、少なくとも彼は、拒絶はしなかった。 「フン、まあいいだろう。君がどんな決断を下したのかは知らないし、今のオレにはそこまで興味も無いが――君がそう言うのなら、このDio、少しは付き合ってやろうじゃあないか」 「本当? なら、映画でも見に行かない? ドロシー・パーカーっていう女優が主演を務めているのよ」 「……ドロシー・パーカー。悪くない」 正直なところ、映画の内容や女優なんてどうでも良かった。彼の時間を、私で潰すこと。……彼の本当の目的が何なのかは、今でもよくわからない。その上で、彼の目的に費やす時間を、無駄に消費させてやろうという気持ちもあった。 そして私は、そっとディエゴの腕に自分の腕を絡める。まるで恋人のように、結婚したての新婚夫婦のように。私たち二人をそう形容することは、最大限の皮肉でしかないけれど。 彼はちらりと腕に目を向けたが、特に何の反応も見せなかった。 「……嫌がらないのね? 嫌がらせのつもりだったけれど。傍から見れば、ディエゴ・ブランドーが女の子を誑かしているように見えるんじゃあないの?」 私がこんなことを言っても、彼は振り払おうともせず、特に感情を乱す素振りも見せず、ただ口角を歪めてこう言うだけだった。 「浮ついた噂や悪い噂くらい、騎手にはよくあるもんだ。噂によると、ディエゴ・ブランドーは多額の遺産目当てにもうすぐ死ぬだろう孤独な老いぼれた婆さんを騙して結婚した、なんて言われてるらしいぜェ――」 義母は確かに昔の結婚相手が死んでから長らく孤独で、だからこそ彼女は二十年前に赤子の私を引き取ったのだけど、それでも彼女には私が居る。……私が居たはず。 それを知った上で、ディエゴ・ブランドーは侮辱する。彼女の支えになれなかった私のことも、騙された義母のことも、何もかも。その上で私は、軽く皮肉を返すだけにとどめておいた。 「……そんな酷い噂が立つのなんて、あなたくらいじゃあないの?」 火のないところに煙は立たないなんて言うけれど、この男の煙の元にはドス黒い炎が燃え盛っているのだろうと、そう思った。 映画の内容は、そんなに悪くはなかった。適当な感想を言い合いながら、街から家に戻る。 それから私達は、特に言葉を交わすこともなく自室に戻っていった。 ……嗚呼、私にはあと、五ヶ月の時間しかない。義母が退院したら、義母との久しぶりの外出予定があるが、私にはそれ以降の予定なんて無い。……『あの日』までは。 だったら、それまで、時間があればあの男を連れ回してやろう。信じたその日の選択肢に向かっていきながらも、楽しむということ。それが、私の選んだ道なのだ。 ――その日まで、せいぜい楽しみなよ、お嬢様。そんな声が、聞こえた気がした。