16.転落注意報

 一週間後――私は、ディエゴに連れられて屋敷を出た。義母に、『舞踏会に行く』という、今となっては絶対にありえないウソをついて。  仮にも令嬢という立場である私は、普段からそれなりに煌びやかな服を身にまとっている。それに加えて、舞踏会ともなれば、さらにおめかしすることは当たり前のことだ。『ハンス・ポップ』との縁談が上手く進んでいると思い込んでいる義母は、いつにも増して上機嫌で、使用人たちに私のことを飾らせた。  舞踏会に行くということをアピールするためだけ、もっと言えばそれを義母に見せるためだけの仮初の衣装、化粧。それは、今の私にはむしろみじめだった。 「さて、オレはナマエを送っていきます。良い知らせを楽しみにしていてくださいね、愛しい人」  ディエゴはそんな体裁で、表向きはにこやかに義母に対して話しかける。義母は彼の言葉を全く疑うことなく、心底嬉しそうに私を見送った。 「ええ、待っているわ。ナマエ、頑張りなさいよ」 「……わかっているわ」  大嘘だ。義母に対して嘘を言うのも、もう慣れてきた気がする。一応笑顔を見せてあげたいとも思ったけれど、どうしてもそんな気分にはなれなかった。 「じゃあ、行くか」  屋敷から出た途端に、ディエゴは作り笑いを引っ込める。そしてぶっきらぼうに言い放ったその言葉に、私は憤然としながら言い返した。 「『お義母さまに疑われないように、舞踏会と偽って適度に屋敷を出る』――その言い分はわかるわ。だけど、どうしてあなたがいるのよ!」 「言っただろう? オレが連れていくって。それに、君はひとりじゃどこにも行けないだろう? まさかミョウジ家のお嬢様が、使用人もつけず出かけることなんてないだろうからな」  言い返せないのが悔しかったが、その通りだった。――私は、ひとりではどこにも行けない。 「じゃあ、あなたは私をどこに連れていくつもりなわけ?」 「それは、行けばわかるさ」  そう言って、ディエゴ・ブランドーは馬車の近くにいる使用人に何か握らせた。使用人はそれを確認すると、無表情のまま、馬車に乗っていいという合図を出した。  私は渋々と、先に馬車に乗り込む。その後、ディエゴも乗り込むと、馬車はゆっくりと走り出した。 「あと、ナマエ――折角化粧したばかりだろうが、今のうちに落としておいた方がいい」  私は、思いっきり顔を顰めた。化粧を落としたくないと反発したわけではなかったが、彼の言っていることが全く理解できなかったのだ。 「……どうしてよ」  別に舞踏会に行くわけではないと知っているから、化粧が無意味なことはわかる。だけど、わざわざ落とせ、なんて。 「こればっかりは、忠告だ。今から行く場所に行くというのなら、化粧なんて以ての外だぜ。あそこにいる女たちは、基本的にみんな化粧なんてしていないからな」  彼がサラリと言ったので、私は渋々、化粧を落とすことに従うことにする。  ――今から私がその場所に行かなきゃ行けないのは、あなたが勝手に連れていくからでしょ。  そう思ったが、抗議したところで無駄なことだと気がついて、私は無言で化粧を落とした。  本当に義母に見せるためだけの化粧だったなと思うと、無性に泣きたくなった。  それからしばらく、無言の時間が続いた。どうも居心地が悪かったが、彼の顔を見ないようにしてなんとかやり過ごす。  随分長い時間、馬車に揺られ続けていたように感じたが――その時間はいつの間にか過ぎ去っていて、気がついたら馬車が止まっていた。  そしてディエゴは、ゆっくりと立ち上がる。 「さて、ナマエ。オレは馬車の外で待っているから、この服に着替えた方が良い」  そうして彼が私に手渡したのは――ひと目みてわかるほど、古く薄汚れた服。 「今度は服? あなたは私をどうしたいわけ」  私はまた顔を顰めた。――今日の彼の言動は、いつにも増して不可解だ。 「君をどうこうしたい訳ではないな。むしろ、君がどうこうされないために守るための配慮、とも言えるかもしれない」 「意味がわからないわ」  唖然としながら、私は服を広げる。どうやら、一応ドレスの様だが――色は古さによりくすんでいて、とても貴族が着るようなものではなかった。 「まっ、着たくないというならそれでも構わないぜ――身ぐるみ剥がされても良いって言うのならな」  ――あなたは私を、どこに連れていくつもりなの?  半ば恐怖すら感じつつ、私はそのみすぼらしい服を眺めた。正直、これを着ろと言われるのは全く気が進まない。  しかし、ここまで来たのならきっと、着ないわけには行かないのだろうと思い――ディエゴが馬車から出たことを確認してから、ゆっくりとそれに着替え始めた。  ひどくみじめな気持ちにはなったが、仮初の美しい服装よりも、実はこれのほうがお似合いなのかもしれないと思い――私は思わず、ひっそりと自嘲した。  憂鬱な気分で馬車から出てくると、いつもより古びた服装になって、仮面で顔を隠したディエゴと目が合った。私はもう抗議する気力もないまま、彼に向かって話しかける。 「私にこんな服を着せるなんて……どういうつもりなの」 「……フン、まあ上出来じゃあないか。あとは君もこれで顔を隠すといい。これでもまだ綺麗な方を用意したんだぜ? そのドレス」 「全くもう、信じられないわ」  渋々と彼が手渡してきた仮面を受け取り、顔を隠す。自分が今、どんな格好になっているのか、ここには鏡がないのでわからないけれど――きっと、ひどい格好をしているのだろう。  まさか、今ここにいるみすぼらしい格好をして顔を隠した女のことを、貴族だと思う人間は誰もいまい。そう考えると、自分でも驚くくらいに、気分が沈んでいくことを感じた。 「さてナマエ、ここからは歩いていく。くれぐれも、顔を覚えられるな。……少なくとも、今のうちはな」  これからさらに、この私を歩かせるってわけ?  彼に対する文句を言おうと思えば、山ほど出てくる。だけどもう、ここに来て後戻りはできないとは気がついていたので、何も言わなかった。  ただ、心の中で舌打ちだけはしておいた。 「ねえ、まだなの? しかも、こんなところに私を連れてくるなんて」  連れていくなら連れていくで、さっさと目的地まで届けてほしい――そんな思いで、私は目の前を歩く男の姿を睨みつける。  それにしても、最初から薄汚れたところだとは思っていたけれど、段々酷くなっているように見えるのは気のせいだろうか? 「もうすぐだ。――ほら、あそこの通りからがそうだぜ」  私の怒りに気づいているのか気づいていないのか、ディエゴは淡々と告げた。その言葉に、私はゆっくりと顔を上げる。 「あそこの、通り……?」  心のなかで文句を言っているうちに、いつの間にか彼が連れてこようと思った地に到着したらしい。だが、達成感など微塵もなかった。  私は疲れ切ったまま、彼の指さした方向に目を向ける。  そこに広がっていた風景は――  私が生まれてから、一度も見たことがなかったような、おぞましい光景だった。  みすぼらしい格好をした浮浪者たち。  想像を遥かに絶する、酷い匂い。  一目見ることすら嫌になるほどの、汚らしい光景―― 「ここ、は……?」  何も言えず、ただ唖然とする。そんな私の言葉に、ディエゴは静かに答えた。 「家もないような輩が、唯一暮らしていけるような町さ。……綺麗なものばかり見て生きてきたお嬢様には、ちょいと刺激が強かったかな」  皮肉じみた彼の声も、わたしの耳には届かない。  こんな世界が、この世に存在するなんて―― 「窃盗、殺し、売春、なんでもアリの呪われた貧民街だ。しかも、伝染病が流行るのもここからだと言うぜ」  ふら、と私は足を踏み入れる。その瞬間、近くにいた浮浪者の一人が私に目を向けた気がした。キッと、感じたことのないくらい鋭い視線に、私は内心たじろく。あれは人間以外の何か野蛮な生物だと説明されても、きっと今の私なら信じただろう。 「おっと、目立つなよ。ここでの新人は、下手すれば襲われかねない。――まさか君が、身ぐるみ剥がされて正気でいられるわけがあるまい」  その言葉に、私は身を引く。そして、私は呆然としながら、隣の彼に言葉をかけた。 「どうして、私をこんな所に連れてくるの」 「ナマエ、君に聞いておこうと思ってね」  ディエゴは淡々と言葉を連ねた。その響きに、私は思わず戦慄する。  なぜならそれは、私にとっての退路を断つ――恐ろしい言葉だったからだ。 「君は、ここで暮らす覚悟はあるのか? オレが君を捨てたとき、家や金がなくても過ごせるところなんてここくらいしかない」  私は思わず、ごくりと息を呑みこんだ。  そうだ――私が誰も殺さないで、彼に勘当されるという道を選んだ場合――家も後ろ盾もなくなった私は、こんなところで生きるしかない。生きるとしても、娼婦以外に生活の手立てはあるのだろうか? 「恩人のことを殺さずに、このオレに惨めにも捨てられて、ここで娼婦として生きる。――なるほど、ご立派な道だ」  肩を竦め、嘲笑うように彼は言う。その顔の笑みは美しかったが、やはりどこか歪んでいた。 「だがな。自分の幸せのために、自分の手を汚すこともできない。自分が不幸になる道を変えることができない――人はそれを、負け犬と呼ぶんだぜ」  そこでディエゴは口を閉ざし、私は言葉に詰まる。しばらく、辺りの地獄のような呻き声や怒号が直接耳に響いてきて、吐き気を感じた。 「なあ、あの人を殺せよ、ナマエ。君には、それができるんだぜ。自分の幸せのために、時には恩人すら切り捨てる――君にならできるはずだよなァ、ナマエ」  私は、何も言えなかった。  ふと、周りの光景を改めて見回す――何度見ても見慣れることのないだろう、目を背けたくなるような光景。私がこの地まで堕ちることなんて、想像もできなかった。しかし、私の選択次第では、私はここに堕ちかねない。 「ここの実態を知ってまでも君がここに行きたいというのなら、オレはもはや止めやしないがね。ただ――お嬢様が、こんなところで生き延びられるとも思っていないが」 「…………」  私はただ、無言で俯いた。『毒』を誰かに盛るか、誰にも盛らないか――その選択は、私が考えているよりもずっとずっと、重たいものであるのだと――嫌でも、身に刻まずにはいられなかった。 「さて、ここに来たことで、君の考えに影響を与えられたと思うが――まあ、今日のところは帰るとするか。本当にここを自分の場所にしたいか――それをゆっくり、考えておくんだね」  彼の言葉を聞きながら考え込んでいるうちに、なんだか目眩がしてきたが――このみすぼらしい服装からもとの服装に戻り、あの住み慣れた家に戻れると思うと、正直ホッとするところもあった。 「?」  ため息を吐きながら、馬車に戻ろうとする途中――ふと目をやると、ここには外国人もいることに気がついた。それも、結構いろんな人種が住んでいるようだ。 「東洋人もいるのね、ここは……」 「ああ、この街にはいろんな人間がいる。過去も詮索されないし、まあ、ある意味過ごしやすいところとも言えるかもしれないな。まあ、オレはここには住んだこともないし、住みたいとは全く思わないが」  何気なく自分が発した発言に、彼の言葉。  それらの何かに、どこか引っかかる部分があって、私は首を傾げる。何かすっきりしなくて、さらに気分が悪くなっていった。  そのわだかまりが何だったのか、それをずっと考えながら――私はディエゴに連れられ、馬車に戻り、帰路につく。  この街が、胸の奥のわだかまりが――自分の行くべき道を定めるきっかけになるとは、知らぬまま。