次の日。 一晩入院していた私の義母は、けろりとした顔で家に戻ってきた。 「もう、大丈夫なの?」 「大丈夫よ。心配かけたわね、あの人にもナマエにも」 あの男は心配なんてしていない――そう言いかけて、ぐっと堪えた。わざわざ、義母に対してそんなことを言う必要なんてない。 「それよりナマエ、ディエゴったらね、あんまり私のことが心配だからって、私が今までやっていたことを全部やってくれるっていうの!」 知っているわ、と言いかけてやめた。ディエゴが、義母が今までやっていたことをするということは、私の失態――私が舞踏会に行けなくなり、結婚できる可能性がかなり低くなったということ――を義母の耳に入れないようにするためだ。 それを今、私の口から言ってしまえば、それら全てのことに意味がなくなり、私は勘当されてしまう可能性が高い。 ディエゴに庇われているというわけではなく、それをネタに脅しまがいのことをされているのが、腹立つところだけど。とりあえず、私は黙って、義母の言うことを聞くことにした。 「手紙のやりとりも、人付き合いも楽しいのだけれどね。だけど最近、億劫になってきた所なのよ。ディエゴとさえお話できればそれでも良いって思えて来たところだし、丁度良かったわ」 歳はとりたくないわねと言いつつ、哀れな老婦人は幸せそうだ。六十以上も年の離れた夫に、心配されている、愛されているとでも思っているのだろうか。 実際は、遺産目当てで結婚したに過ぎないのに。 そしてディエゴは、義母が死んだら私と結婚してやってもいい、などと平気で言い放つというのに。 あろうことかあの男は、義母のことをこの私に殺させようとしているというのに。 義母に病院から貰った薬を渡して、私は彼女の部屋から出た。今まで積み重なってきた精神的な疲労が、私の身体に襲いかかる。 そして、自分の部屋に戻って、まず引き出しを開けた。そして、小瓶に入った毒薬を取り出す。 「冷静に考えてみれば――何故、私がお義母さまを殺さなくてはならないわけ?」 しかしディエゴの案には、私の行動を制限するだけの、圧倒的な力があった。 義母を殺したくはない。自殺だってできることならしたくはない。――だけど。 もしこの毒薬でディエゴを殺せば、彼の後ろ盾がなくなり、義母は私の失態を知るだろう。そうすれば、私は勘当され、生きていくのが難しくなる。 誰も殺さなかったら? ――いつか、老いた義母には死が訪れるだろう。その時に、ディエゴは私のことを一文無しにして捨てるという。そうすることは不可能なことではない。悔しいけれど、今のミョウジ家で一番力を持っているのは、彼にほかならないのだから。 ディエゴは、義母を殺せば、私を捨てることはないという。一番、私の将来が約束されるのはこれだ。結婚もできなくなった私には、義母かディエゴのお金なしには生きていけない。 だけど、今まで育ててくれた義母を殺したくはない。いくらなんでもそこまで恩知らずではないし、私はあの人のことが好きなのだから。 まあつまるところ、私は今、八方塞がりという状況に見舞われていた。 本当にどうしたものだろう。今日は思考を放棄して、とりあえず眠ってしまおうか。 そう思っていた矢先のことだった。 「ナマエ、いいか」 自室のドアがノックされ、もう慣れた彼の声がする。追い出す気にもなれず、私は億劫だと思いながら返事をした。 「何よ。……何の用」 「今回ばかりは、悪いが話を楽しむ暇はない」 「別に、いつも楽しんでなんてないわよ」 「いいから、来てくれないか」 いつも余裕綽々なディエゴから、今日はやけに焦燥を感じる。流石に不審に思い、私は聞いた。 「何かあったわけ?」 「あの男が来ている」 あの男? 咄嗟に誰のことか思いつかず、眉を顰める。だがディエゴは扉の向こうで、苦々しげに告げた。 「――ハンス・ポップだ」 ハンス・ポップ。 昨日の舞踏会で初めて出会った男。第一印象は、口の上手い、堅実な魅力を持つ男。次に、レースでディエゴに負けたと聞き、堅実な魅力が霧散したと感じた。最終的に彼は――憎しみ、妬み、絶望、軽蔑。そんな目で私たちを睨みつけた。今は、そんな印象しか残っていない。 「あの男が、今更何の用ですって?」 「良いから、来てくれ。どうも、オレだけの言葉では納得しないようだからな。あいつは口が上手いみたいだ」 「あなた、彼に変なこと言っていないでしょうね?」 言っていないわけはないが、小言を言わないわけにもいかなかった。 とにかく、私がここに燻っていようとも、私の分は悪くなる一方だろう。小瓶を引き出しの中にしまい、私は部屋を出た。 流石にハンス・ポップに毒を盛る理由はない。そう思いながら。 「来たか」 私とディエゴを見て、ハンス・ポップは顔を顰めた。 彼は今、屋敷の玄関先に立っていた。彼の顔に、昨日感じた魅力は残っていない。今の彼からこれといった感情を見出すことはできなかったが、どうしても昨日のあの目を思い出さないわけにはいかなかった。 「……何しに来たの?」 急に訪ねられたのだ、不審に思うのも仕方がないだろう。しかしハンス・ポップはため息をついて、私たちのことを睨みつけた。 「昨日、その男が言っていたことが、本当かどうか知りたくてさ」 ナマエは、純潔をオレに託したんだぜ。 ディエゴは昨日、こう言った。この言葉ひとつで、私の人生は大きく変わったのだ。 彼がこんなことを言わなければ、私は今頃、毒の使い道について悩むこともなかっただろう。もしかしたら、今目の前にいるハンス・ポップと共にお話する、なんてこともあったのかもしれない。 そんな『もしも』の話なんて、考えても仕方がないのだけれど。 「何故オレが、あの場所で嘘を言わなければならない?」 「君は黙ってろ。僕は君に聞いていない」 ディエゴが口を挟んでも、ハンス・ポップは一蹴するだけだった。呆れたように、ディエゴは口を閉ざす。それは、嘲笑しているようにも見えた。 「どうなんだ、ナマエ」 そう凄まれても、『困る』と言うのが、正直な感想だった。 ディエゴの言葉は、誤解を招く言い方であったことは事実だ。 ただし、完全に嘘をついた、というわけでもない。最悪の誤解を招く、考えうる限り最も最悪な暴露ではあったわけだけれど、それでも嘘をついたわけではないのだ。 キスをしたのは事実。どんな形であれ、純潔を失ってしまったことは、事実なのだ。さて、どう答えたものだろうか。 考えているだけでは、埒が明かない。私は先に、彼の真意を掴むことにした。 「もしそれが嘘だったら――あなたは、どうするの」 「決まってる――君が無実だと言うのなら、君が純潔を貫いていると言うのなら――君の、疑いを晴らす。それでも、舞踏会にはもう招かれないかもしれないけれど。それでも、できれば君の体裁は守りたい。それに、もし君が良ければ、だけど――もう一度、君と話がしたい」 「…………」 ここに来て、新たな選択肢が生まれた。しかもそれは、最も希望に満ちた選択肢だった。 ハンス・ポップについて行く道。もしかしなら、もしかしたらだけど――彼と結婚することだって、できるのかもしれない。そうすれば、誰も殺すことなく、生きていけるかもしれない。 義母から勘当されても、ディエゴに捨てられても、お金がなくなっても。この人と一緒なら、もしかしたら。 「私、は……」 あの時のことを否定する。それは簡単だ。『私はディエゴと関係なんて持っていない』。そう言えば良いのだ。 だが、キスされたのは事実。どうあっても、それが覆されることはない。私が拒絶しようと、過程がどうあろうと、そういう結果が残ったのは、どうしようもない事実なのだ。 「私は……」 否、違う。私はあの時、拒絶しなかった。拒絶できなかった。もう少しだけ早く離れることだって、拒絶して暴れることだってできたはずだ。なのに、私はそれをしなかった。 今更、ディエゴの言葉を否定できなかった。否定すること、それは嘘をつくことだ。 今ここで、嘘をつく。 それは、嘘つきな『蛇』になるのと一緒ではないか。自分が蛇になることを、認めるだけではないか。 「…………」 動かすことができなくなった口の代わりに、目が働いた。涙が溢れ出て、止まらなくなる。 「ナマエ、君は……」 否定してくれ。滲んだ視界の向こうで、ハンス・ポップは苦しそうな表情でそう懇願しているように見えた。 「ま、そういうことだ」 少しの沈黙の後。肩を竦め、ディエゴは私の手を引いた。 「嘘じゃないさ、ナマエがオレに純潔を捧げたことはな。さて、もういいかな? オレは、彼女を落ち着かせてやらなくてはいけない。それは、君にはできないだろうな。なんせ彼女を泣かせたのは、君なんだから」 その言葉すら、否定することができなかった。涙が止めどなく溢れて、口を開くことすらできない。 「君は……」 ハンス・ポップが発する声色は憎々しげで、絶望が込めれていて――そして、少し震えていた。 「君は、最低な男だ。ディエゴ・ブランドー」 「なんだ、また妬んでいるのか? フン、君はいつだって、ナンバーツーより下の男だ。妬みとは、ナンバーツーより下の者が持つ感情でしかないからな」 ハンス・ポップを置いて、ディエゴは踵を返した。そして私は、それに引きずられる形となる。ハンス・ポップの視線を痛いほど受けながら、私たちは屋敷に戻った。 「ナンバーワンはこのオレだ……このDioだ。ナンバーワンの男が、妬みなんて抱くはずはないんだからな」 並々ならぬ野心的な彼の独り言が、やけに耳に残った。やっぱり毒薬を持ってきて、すぐにでもこの男を殺せば良かったかと、そう思った。 正常な思考ができないくらい、私は混乱していた。だけどそんな今の私にも、確信できることは、いくつかあった。 先ほど現れた、最も希望に満ちた選択肢は、たった今粉々に破壊されたということを。 そして、もう彼とは――ハンス・ポップとは――二度と話すことはないだろう、ということを。