「あなた、何がしたいの!」 大勢の人がいた広間から逃げ去り、廊下で二人きりとなった所で私は叫ぶ。ハンス・ポップの憎しみと妬み、そして軽蔑が含まれた瞳が、依然頭から離れなかった。 思い切り睨みつけても、ディエゴはただ、私の手を引っ張りながらただ歩き続ける。決してこの手を離すまい、と言わんばかりに彼の手には力が篭っていて、痛い。故に、強引に振りほどくことができず、内心舌打ちした。 「私から何もかも奪って、そんなに楽しい!?」 私がこう喚いても、ディエゴは無言で歩き続けるだけだった。しかも、さらに手に力を込めたので、私の手がますます痛くなってくる。その振る舞いがどうにも癪に障り、さらに私は感情に任せて叫び散らした。 「さっきの騒ぎがお義母さまの耳に入ったら、小言を言われるだけじゃ済まないわ。私がもう結婚できないかもしれないと知ったら、私はきっと彼女に勘当されてしまう……。……もう、家にも帰れないじゃない! あなた、本当になんてことしてくれたのよ!」 「ああ、その点については大丈夫さ」 私がこう言うと、ディエゴはやっと立ち止まり、振り返った。そして、ゾッとするほど冷たい笑みを私に向ける。その笑みには底知れない不気味な印象が含まれていて、どうしようもなく嫌な予感に包まれてしまった。 「……どういうこと? あなたがお義母さまに説得でもしてくれるってわけ?」 思わず怒りを忘れ、訝って聞く。そして彼が放った言葉は――予想以上に、最悪な答えであった。 「ああ、そうじゃあない。あの人は今さっき、病院に運ばれたばかりだからさ。ナマエの噂なんて、気にしてる暇なんてないだろうね」 冷たい表情を見せたまま言い放った言葉には、どこか喜びのような声色が乗っていた。 思い描いていたシナリオ通りに、事が運んだことが嬉しくて仕方がない、とでも言わんばかりに―― 「…………。……どういうこと? お義母さまに何があったって……? まさか、あなたが毒を!? ……そうじゃない、そうじゃなくて、早くお義母さまのところへ行かなきゃ! お義母さまは、ぶ、無事なの……ッ!?」 私は彼の言葉を聞いて少し惚けていたが、その後すぐに取り乱してしまった。 そう言われてみれば無理もない。あの齢八十三歳のお義母さまには、もう何が起こってもおかしくないのだ。いつも元気だからあまり考えていなかったけれど、彼女はもしかしたら、ちょっとした風邪が命に関わるかもしれない。寿命が訪れるのだって、そう遠い未来ではないのかもしれないのだ。 ……それに、ディエゴに命を狙われることだって、ありえない事ではない。この間、彼が持っていた東洋の毒薬を私に渡して、『毒は盛らない』と誓いまがいのことを宣言してみていたけれど、それが全くの嘘だということもありえる。もしかしたら、あの時私に渡した毒は、ただの砂糖だったりするのかもしれない。そして、本物は彼が持っているのかもしれない。 一瞬で思考がそこまで回って、さらに取り乱している私を制するように、ディエゴはため息をひとつだけ吐いた。 「落ち着けよ、話は後だ。使用人を馬車で呼びつけているからな」 「でも! お義母さまが、お義母さまが……ッ!」 「とにかく行くぞ、ナマエ。夫が妻の、娘が母親の危篤に駆けつけないわけにはいかないだろう?」 皮肉にも、ディエゴの放った冷たさが孕むその言葉に、私は幾分か落ち着きを取り戻した。否、目を覚ました、と言った方がいいのかもしれない。 私は確かに、お義母さまとは『母と娘』の関係だ。同時にディエゴは、お義母さまとは『妻と夫』の関係にある。だけど、だけど。 「そうだ、これだけは言っておく。命に別状はないそうだ」 「……そう、それなら……良かったわ」 私は、いくら娘とはいえ『養女』に過ぎない。つまり、お義母さまとは血が繋がっていないのだ。同時にディエゴは、夫とはいえお義母さまのことを愛してはいない。そして私とディエゴに至っては、最早『父と娘』の関係ですらなくなってしまっている。つまりもう、私たちは完全に、想いがそれぞれ違う方向を向いてしまっているということだ。 そう考えると、ミョウジ家はとても寂しい一家のように思えてきた。偽りの愛。偽りの家族。私たちを繋いでいるのは、一体何なのだろう。私たちは一体、これからどうなってしまうのだろう。 「行くぞ」 私は、ディエゴが館から出て、呼びつけた馬車へと向かう間、ずっと彼の手に引っ張られてしまっていた。けれど特に抵抗しようという気にもならなかった。ただ、今の私には、流れに身を委ねることしかできなかった。 「お義母さまは……お義母さまは大丈夫なんですか」 「ええ、薬を飲めばじきに良くなるでしょう」 「……そうですか」 義母は、病院の白いベッドの上で眠っていた。どうやら彼女は、自宅で血を吐いて倒れたらしい。それを聞いた私はもう一度取り乱してしまったが、とにかく今のところ命に別状はないらしい。医者の言葉に、とりあえずは安堵する。 「――ですが、ディエゴさん、ナマエさん。彼女は、失礼ですがこのお年では……、薬を飲ませるのを忘れたり、誤った薬を飲ませれば、命に関わるかと……。今夜は入院させますが、明日にでも退院できるでしょう。ですので明日以降は、くれぐれも気をつけて看病なさってください」 医者の言葉に返事をしようと思ったら、ディエゴはいつになく真剣な表情で医者を見つめていた。――でも私にはわかる。この顔が、偽物だってことくらいは。 「わかっています。オレは彼女を死なせたりなんてしません」 白々しい。ディエゴがいつも以上に芝居がかった表情を浮かべるのを見て、そう言いかけたのをグッと堪えた。何も知らない医者はそっと微笑んでいたし、年老いた私の義母はただ穏やかに眠っていた。 義母の病室から出たところで、私は辺りを見回す。廊下に誰もいないことを確認すると、私はディエゴに話しかけた。 「……ねえ、ディエゴ」 私が呼ぶと、ディエゴは立ち止まる。そして壁に背を預け、そして視線をこちらに向けた。立ち止まったということは、私の口調から長丁場になることを察したのだろうか? 私は息を吸い込んで、そんな彼の瞳をじっと見つめた。 「私に嫌がらせしたのは、私を病気のお義母さまの所へ連れていくついでだったってわけ? それとも、私を嫌がらせで連れて帰るために、お義母さまに軽い毒でも盛ったってこと? ……流石に後者だとは思いたくないけど、前者だとしても悪趣味ね。まあ後者だとしても、あなたならやりかねないとは思うけれど」 「そんなことはどっちだっていいだろう? もう過ぎたことだ。前者だろうが後者だろうが、君のこの状況が変わるわけじゃあないんだぜ、ナマエ」 私が聞いても、ディエゴは無表情にこう言うだけであった。それを聞いて、私は最早ため息をつくしかなかった。 「……それもそうね。結局私は、彼女に勘当されてしまうのかしら。ねえ、もしかして、こうして私をミョウジ家から追い出して、遺産を独り占めするのがあなたの今回の目的だったの? 私は別に遺産がどうなろうと、私が生きていけて、そして素敵な人と結婚できればそれでよかったんだけど。……全く、嫌な男ね」 ひと通り落ち着いてしまうと、現在私の心の中に渦巻いている感情をどうしたものか、と持て余し始める。これは、怒り? 悲しみ? 憎しみ? 戸惑い? 絶望? ――きっと、そのどれでもあって、どれでもないのだろう。 途方に暮れている私のことを、彼は見ているのか見ていないのか、それはわからない。ただ、ディエゴは、何故か奇妙なことを言い始めた。 「フン。それより、このDioが良い提案をしてやろうか?」 「あなたが? ……どうせ、ロクなことじゃあないんでしょう?」 疑いの目で彼のことを見ると、ディエゴはクツクツと笑い出した。この男の笑いの沸点はよくわからない。ディエゴが笑う時は大抵私は気分を害するし、今回もまた例外ではなかった。 「どうかな? そうだな、あの人はこれでもう引退だ。まあとっくの昔から、この家はオレが仕切っていた、と言っても過言ではないがな」 「……だから何よ」 「あんな身体じゃあ外にも出られないだろうな。だから外の噂が、あの人に届くことは無い。そして使用人には口止め料を払っておく。あの人がやっていた手紙のチェックや、他の簡単な人付き合いだってオレがやるさ。このオレが適当に口車に乗せれば、あの人も簡単になびくだろうな」 ディエゴの言った言葉に、思わず絶句する。ディエゴがここまでして、私の失態を義母に知られないよう庇っていることに……ではなく、そうすることには何か裏があるだろうからだ。それはきっと、私が想像しているよりもはるかに酷いことであろう。 「これで君は家に帰れるよなァ、ナマエ? 君の失態はこれで、あの人に知られることはなくなる。なあ、いい提案だとは思わないか?」 「……あなたの目的は、何?」 最大限警戒して、私はディエゴに問いかけた。久しぶりに、ディエゴに対して最大限の敵意を向けた気がする。そんな私とは対照的に、ディエゴはただ、世間話をするかのように私にこう返答した。 「なあ、君、結婚願望あるだろ」 急にこんなことを言い出すので、やや拍子抜けする。だがもう私が結婚出来ないであろうことや『王子様』を追い求める夢見がちな部分があることを思い出すと、途端に血の気が引いていった。 「結婚することを願うのは、淑女として、ミョウジ家の令嬢として、当然のことだわ」 とりあえずこう言って誤魔化す。けれどこんなのは建前でしかなくて、本当は私個人として素敵な人と結婚したかった。素敵な『王子様』のような人に、どうしても愛されたかった。 「でも今回の件で、もう見合いには行けず、舞踏会に招待されることはなくなったってわけだ」 「誰のせいだと思って……!」 いけしゃあしゃあとディエゴが言うので、思わず腹が立って彼のことをキッと睨みつける。彼に言葉で噛み付こうとしたら、ディエゴの長い人差し指で、私の唇を抑えられた。不意を突かれ、心臓が跳ね上がってしまう。 「そうだな、これで君は結婚することが出来なくなった。これで、君はこれから、惨めな生活をすることになるだろうなァ。これからあの人が死んだ後も、結婚できず、独りで過ごすんだろうよ。もしかしたら生きることすらままならないかもな。あの人が死んだらオレは、ミョウジ家の全財産を根こそぎ奪い取るが、君を『父親』として拾うつもりは毛頭ないんでね」 ディエゴはそう言うと、人差し指を私の唇から離した。私は彼の瞳を睨みつけながら、恨みの気持ちを込めて彼に言葉を吐き出す。 「あら、そう。……いいわ。なんなら娼婦まがいのことをしてなんとか生き延びて、それから貴方に復讐してやるから」 半分思ってもないことも言ってしまった。しかし、もし本当にこんなことになったら、彼に復讐してやろうという気持ちは、確かに私の中に存在していた。 こんな私の言葉を聞いて、ディエゴは不意に仰々しく両手を広げた。私の言葉の何に反応したかはわからない。ただ、私が彼の行動によって訝しく思ったことだけは、確実なことである。 「貴族の淑女に、そんなことができるかな。――なあナマエ。それよりも、もっと簡単なことがある。これがさっきの『提案』だ」 「……なんだっていうのよ」 「そうだなァ」 ディエゴは舌なめずりをして、私の方へと顔を近づけた。またキスをされてしまうのか、と思わず全力で後ろへ身を引こうとした。だけど、彼の右手が私の後頭部に伸びて私の頭を固定してしまったため、それは叶わなかった。ディエゴの右手の指が私の髪を梳き、左手は私の顔に触れる。そして目の前にあるのは、彼の精悍な顔に浮かぶ、冷たい笑み。 キスされてしまうのか、と半分恐怖に近い感情で、抵抗出来なくなる。まるで時間が止まったように、私は全く動けなかった。 だが、彼は私にキスをしなかった。しかも、その代わりにディエゴが放った言葉は、キスをされてしまうよりも、さらに酷いことであった。 「君が、あの人に毒を盛ってくれたら……オレが相手してやってもいいぜ。そうしたら今度は君の『父親』ではなく、――君だけのオレに、なってやってもいい。なあ、ナマエ。悪くないだろ?」 これは、私がどっちに転んでもディエゴには害はないし、逆に私自身はどちらに転んでも不幸になる提案であった。 「……お義母さまに毒を盛るくらいなら、貴方に毒を盛るか……それか、自殺するわ」 そう言って睨みつけると、彼は私から手を離し、そして顔を離した。この間私に攻撃されたことを、まだ警戒しているのだろう。多分また攻撃しようとしてもすげなく阻止されてしまうだろうから、今回は諦めることにした。 「それはできないね。君が仮にオレに毒を盛ったとして……それで、君はどうやって生きていくつもりなんだ? 君が、オレなしであの人と暮らすとでも? 無理だろうな、オレを失ったあの人が、結婚の希望の消えた娘と暮らせると思うか? ハッキリ言わせてもらえば、無駄なことだ。やっぱり勘当されるのがオチだろうな。それに――蛇は自分の毒で、死んだりはしない。自殺もしないだろう」 ディエゴの言うことは、半分わかったけれど半分理解出来なかった。それに、『蛇』についてのことは相変わらずよくわからない。だけどそれには触れず、より重要なことに言及することにした。 「だから、お義母さまに毒を盛れって? 今まで育ててくださった、お義母さまに? ……あなた、前から言おうとは思っていたんだけど、最低ね」 「なんとでも言えばいいさ。ただ、君があの人に毒を盛ってくれれば、オレは君を引き取り、遺産もやる。ご希望なら、君と結婚してやってもいい。だが君が毒を盛らないなら、あの人が死んだ後でオレは君を見捨てる」 「随分身勝手なのね」 確かに、『夫』であるディエゴがいる今、女である私には相続権はない。しかも、遺産を全て取られてしまうなら私は一生まともな生活は送れない。もう既に、『純粋でない』とされてしまった私は、社交界からは追い出されてしまっているので、結婚することもできない。 ……なんだか随分と、面倒なことになってしまったようだ。私は、どうやって切り抜ければ良いのだろうか? 「さて、話はこれで終わりだ。じゃあ帰るか、オレの愛しの蛇さん。誰を殺すのか、誰も殺さないのか――どうしたら自分が一番幸せな人生を送れるのか。よく考えておくんだね、お嬢様」 ディエゴは外に向かって歩き出した。そのまま後ろに着いていくのは癪だったけれど、帰らないわけにもいかないので、ゆっくりと彼の後ろを歩いた。ディエゴの後ろ姿を睨んでいたら、彼の首を掻っ切ってやろうかという衝動に駆られたが、堪えることにした。 家に戻ると、とにかく早く自分の部屋に戻る。部屋のドアにしっかり鍵をかけたことを確認すると、引き出しをそっと開いた。小瓶を取り出すと、ディエゴが言っていた言葉を思い出す。 ――これか? 東洋から手に入れた毒薬だ。 「……全く、趣味の悪い男よね」 以前受け取った、薬がそこにあった。それを取り出し暫く眺める。少しだけ迷った後、毒薬をどこに閉まったか忘れないように、この光景をしっかりと目に焼き付けた。 「……誰かを殺すかもしれない、わね」 しかし、この毒を、誰を殺すために使うのか、それとも使わないのか――義父と、義母と、そして最後に自分の顔が浮かんだけれど、今の私にはわからなかった。 わかることは、ただ一つだけ。 「この毒を使えば、その人との別れは今までで一番、最悪なものになるわね。……間違いなく、私の手によって」 今日のハンス・ポップとの出会いは、ディエゴ・ブランドーの手で最悪なものにされてしまった。 そして今度は、私と関わりの深い誰かとの別れは、自分の手で最悪なものにしてしまうのかもしれない、とも思った。