「今戻った」 「おかえり、リゾッ……」 チームのリーダー、もとい私の恋人が戻ってきたのを確認した時、私は飛び上がるように立ち上がり、彼の元に駆け寄ろうとした。 早く会いたい、早く近くに行きたい、早く話したい。頭の中が、それだけでいっぱいになる。だから、他のことは何も考えずに、ただ急いで立ち上がることを優先する。 ただ、私は大抵そういう時、自分がかなりの低血圧であることなんて、すっかり忘れてしまっている。 目の前が真っ暗になる。 心地悪い浮遊感が、身体に襲いかかってくる。 そして一瞬だけ意識が途切れ、そしてまた、じわじわと戻ってくる。 最後に意識が戻ってきた時――私は大抵、わかりやすく言うなら「ブッ倒れている」。 それは、私に言わせれば「よくあること」だ。後ろから倒れ尻餅を着くことも、前から倒れ頭をぶつけることも、日常茶飯事だ。 だけど――視界が開けた時、恋人の顔が目の前にあることは、あまり「よくあること」ではなかった。 「リゾット」 痛くない。低血圧で倒れた時には、どこかしら体をぶつけ、痛めるものだけれど、今回は体のどこも痛くない。 私の目の前にあるのは、彼の顔だけだ。黒い服に包まれ、端正な顔には暗い瞳が浮かんでいる。一人でいる時に倒れると、天井しか見えないけれど、今回は彼の顔だけが目の前にあった。 まあつまり、リゾットの腕に支えられるというのは、どれを取っても、決して悪いものではなかったのだ。 だから、私は笑ったのだけれど――等のリゾットは、呆れたようにため息をつくだけだった。 「……言ってるだろ、急に立ち上がるなって」 彼の言うことも最もだ。いつも鉄分不足で低血圧。立ちくらみ、めまいを起こして倒れることなんて日常茶飯事。急に立ち上がれば、それらが起こる可能性はさらに上がる。 「だって」 それでも、早くあなたに会いたい、早くあなたと話したいという気持ちを抑えることなんて、私にはできない。 その気持ちを素直に伝えたところで、リゾットはまた呆れるだけだ。 「それで倒れちゃ元も子も無いだろ」 正論。それでも私はめげることなんてしない。 そんな理屈を通り越してでも会いたい相手、近くにいたい相手、話したい相手。そんなの、リゾットしかいない。 それをまた素直に伝えても、彼はため息を吐くだけだった。 「ほら、いいから休んでろ。また倒れられたら流石にシャレにならない」 「嫌、あなたと話したい」 「我儘言うな」 リゾットに抱えられて、運ばれる。それ自体も決して悪いものではなかったけど、今欲しいのはそれではなかった。 それが彼に伝わっているかどうかまでは、わからないけれど。 「あのな」 リゾットは唐突に話しはじめた。彼の発する低音が心地良くて、ぼんやりと耳を傾ける。 「フラついてるおまえを見ると、不安になるんだよ。鉄分が足りなくて、いつか酸欠で死んじまうんじゃないかって」 オレが殺す相手みたいに見えて――最後、そう付け加えられたような気がした。 私の血は、黄色くなんてないのに。 「とにかく」 私が何かを言う前に、彼は呟いた。 「おまえには鉄分が足りていない。とりあえず何か食って、大人しく寝てろ」 純粋に心配してくれている言葉。だけどそれが何となく滑稽に思えて、私は思わず笑ってしまった。 「鉄分を奪って人を殺す貴方が、私に対しては鉄分を摂取しろ、なんて言うなんて」 「何も可笑しいことは言っていない」 「もし私があなたの暗殺のターゲットになったら、その鉄分を奪われてしまうのかしら? 鉄分を奪われ、酸素が不足して、死んでしまうのかしら」 私が寝言のように呟いても、目の前にある彼の表情は変わらない。ただ、淡々と私に問いかけるだけだった。 「もしそうなったら、おまえはどうするつもりなんだ?」 「それでも」 一息ついて、私は言った。 「それでも私は、あなたと話したい。あなたの近くにいたい。それだけは、何があっても変わらないわ」 リゾットの表情が、少し動いたような気がした。 黒の中に、確かに何かがあった。 「鉄分が足りなくて貧血気味。それ、あなたに殺される疑似体験だと思うの。いつも私は、あなたに殺されてる」 リゾットが何かを言いかけるのを遮るように、私は言った。 「それは今だって同じよ、リゾット。そして、それでも私は、あなたと一緒にいたい」 リゾットはたっぷり黙り込んだ後に、諦めたように呟いた。 「おまえ……」 彼の感情はいつも、少し読み取りづらい。だけど今は、何かが動いたことがはっきりわかった。 「ねえ。だから、一緒にいて。お願い」 私は、すぐ近くの彼の顔に、手を伸ばした。私はどうしても、彼のそばに居たかった。 「……わかった」 呆れか、諦めか、それとも。リゾットは一言告げた後、私の唇に自らのそれを落とした。 「その代わり、覚悟しろよ。ナマエ」 少し、長いキスだった。 少しの間そうしていた後で、私たちはやっと離れる。 私がその間感じていたもの。ふわふわとした、頭の動きが鈍くなるような感覚。そして、酸素が足りなくなって、苦しくなるような感覚。 その二つは本質的には同じもので、同時に違うものでもあった。 苦しい。酸素が足りない。 それを正直に言っても、リゾットは少し、楽しそうに笑うだけだった。 「大人しく休まなかった罰だ」 「……罰になってないわ」 多少息が苦しくても、そんなものは苦痛のうちに入らない。 彼に触れることができるというのは――それだけ、幸せなことなのだから。 「だから、ねえ。もっと頂戴」 リゾットはしばらく逡巡した後に、はっきりと言った。 「駄目だな」 「……意地悪」 拗ねてみせると、リゾットは顔を背けた。 「オレだって、もっとおまえと居たいさ。その気持ちは、おまえと同じだ」 「ならなんで」 「だけど、それ以上におまえが心配だ。ここで無理をしたら、また倒れるだろう、おまえ」 言い返すことができなくて、私は口を噤んだ。だけど、彼の唇が、彼自身の温もりが――あまりに名残惜しくて、思わず恨み言を吐いてしまう。 「……ずるい。ひどい人だわ」 「ずるくて結構だ。こうでもしないと懲りないだろ、おまえ」 確かにその通りかもしれない、と思った。 今日はとりあえずそこで寝てろ、とソファーに寝かせられる。 寝やすい体制を整えていると、出ていこうとしているリゾットが視界に入った。 「もう行っちゃうの?」 「オレが居たっておまえ、ちゃんと休もうとしないだろ」 図星だった。少し休んだら、またリゾットと一緒に話すつもりでいた。見透かされていたことが、少し恥ずかしかった。 めまいを起こして、彼に抱えられるというのは、確かに悪くなかった。けれど、彼と一緒にいられないというのは残念だ。今更ながら、低血圧気味の自分の体を呪う。 今日はもう、彼と一緒にいることは出いないのかもしれない。諦めて、息を長く吐いた。そうしているうちに、彼は出ていこうと扉に向かって歩き始める。 「リゾット」 どうにも名残惜しくて、私はリゾットの背中を見つめる。暗い服が、今にでも闇に溶けてしまいそうで、絶対に見逃すまい、と。 その時――彼は不意に、普段ほとんど聞いたことのない声色で、確かにこう囁いた。 「愛している、ナマエ」 彼の姿は見えなくなって、ドアの閉じる音がした。 「……あの人は、全く」 しばらく呆然した後、我に返るため、私はわざと口に出して呟く。 今更のように鼓動が鳴る。心を落ち着かせるため、私は深呼吸を繰り返す。 私の具合が悪くなければ、彼は今も、一緒にいてくれたのだろうか。私のすぐ側で、語りかけてくれたのだろうか。 そこまで考えて、頭を振った。そんなことを考えていても、私の身体は変わらないし、彼が立ち去ってしまったという、現実も変わらない。 ただ――もしかしたら、少し先の未来は変えられるのではないだろうか。 今、追いかけたら、彼と一緒に居られるのではないだろうか。 「やっぱり――リゾットに、早く会いたい。早く近くに行きたい、早く話したい」 こんなところで寝ている場合じゃない。きっと、そんなに遠くに離れてはいないはずだ。やっぱり、彼のもとに駆け寄りたい。私は飛び上がるように、立ち上がろうとする。 ただこんな時、私はやっぱり、自分がかなりの低血圧であることなんて、すっかり忘れてしまっている。 倒れる直前、愛しい人の腕に、支えられたような気がした。 それは、ただの夢だったのか。 それとも。
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