プロシュート兄貴で甘い話

「……殺した」  私は、ほっと息を吐いた。  だけど、無事に仕事を終えたことへの安堵感は、ほんの一瞬で消えてしまった。  人を殺すといつも、脳内はいろいろなもので埋め尽くされてしまうのだ。罪悪感のようなもの、吐き気のようなもの、泣きたい気持ちのようなもの。そして、自分のエゴへの自己嫌悪。――殺したのは私なのに、こんな身勝手なことを思ってしまうなんて。  そして、一通り自己嫌悪を終えた時、無性に好きな人に会いたいような、寂しさのようなものを感じるのだ。  私は人殺しだ。私だけではない。私の仲間もみんな、暗殺を生業とするギャングだ。  だけどそんな中、私は未だに人を殺すことに慣れることができない。一人で殺すことができるようにはなったけど、それでも慣れたわけではない。  まだ、慣れない。  まだ。 「……いけない」  甘えるな。私は自分に言い聞かせる。深呼吸して落ち着こうとしたけれど、逆にむせてしまった。  早くリーダーに仕事結果を報告しよう、と携帯を取り出す。だけど、手が震えて思わず落としてしまった。慌てて拾ったけれど、自分の弱さに辟易する。  私は、長いため息を吐き出した。そんな中、ふと、好きな人に以前言われたことを思い出す。 「いいか、ナマエ。この世界じゃあ男も女も関係ねえ。女だからといって楽な仕事が回ってくるわけじゃあない――むしろ女である分、危険が迫ってくることだってある」  この世界に入ったばかりの頃、彼は確かにこう言っていた。あまり理解できていなかったその時の私に、彼はこう続けた。 「オレたちは、同じ暗殺者だ。そりゃあ、男と女にやり方の違いは出てくるかもしれねえ。オレにやれないことがおまえに出来たり、おまえに出来ないことがオレにやれることもある。だが! 暗殺者には、男も女もねえ――わかるな」  そうだ、と私は息を吐いた。  女だからって、こう甘ったれたことも言ってられない。私は暗殺で稼ぎ、それで暮らすギャングだ。泣き言を言うな。慣れろ。ただ、任務を遂行しろ。  落ち着いて息を吐くと、いくらか気分は治まった。  それでも、吐き気は止まらなかったし、少し油断すれば泣き出してしまいそうでもあった。 「おうナマエ、お疲れ」  アジトに戻ると、仲間たちが出迎えてくれた。数人は仕事中でいなかったけれど、それでもどうしようもなくホッとした気分になる。  結局、携帯で連絡はしなかったので、リーダー――リゾットに直接報告した。リゾットは特に顔色も変えず、淡々と私に声をかけた。 「よくやったな、休んでいいぞ」  リゾットにこう言われたことで、やっと肩の荷が降りた気がした。それでも、吐き気のようなものが止まったわけではなかった。 「……ありがとう。じゃあ、ちょっと外に出てくるわね」  依然、気分は良くならない。外の空気を吸って気分転換をしてこよう、と私はドアノブに手をかけた。  だけど私は、ぴた、と手を止めてしまう。扉を開ける直前、声をかけられたから。 「おいナマエ、ちょっと来い」  それは、私の好きな人の声。さっきまで、どうしようもなく会いたいと思っていた人の声―― 「……プロ、シュート」  私は、声のした方へゆっくりと振り向いた。そこには、静かに私のことを見つめるプロシュートの姿があった。 「で、何?」  好きな人と近くの川べりで二人きり。しかも、さっきまで会いたいと思っていた人。緊張してしまうこと自体は避けられないけれど、それを表に出したりはしなかった。  男も女も関係ない。今の私は、この人の仲間だ。それ以上でもそれ以下でもない。  固くなっている私に、プロシュートは缶コーヒーを差し出した。少し面食らったけれど、素直に受け取る。  缶コーヒーに口をつけたら、苦味が口いっぱいに広がり、思わず眉をひそめた。だけど、プロシュートは自分の缶コーヒーを優雅に飲んでいる。自分自身が未熟に感じられて、なんだか悔しかった。  苦味に顔を顰めている私に、プロシュートは聞いてきた。 「おまえ、何か変だぞ。調子でも悪いのか?」  彼の言葉に少しだけ動揺してしまう。だけど、一呼吸置いてゆっくりはぐらかした。 「別に。コーヒーが苦いだけよ」 「誤魔化すな」  目をそらして、苦いコーヒーを飲み込む。この人は多分、チーム内の誰より心の機微に聡い。それがわかっていても、私は本心をさらけ出すことができなかった。 「……大丈夫よ」 「大丈夫そうに見えないから聞いてんだよ。ホラ、言ってみろ。それともオレじゃダメか?」  ダメなんかじゃない。むしろ、あなたじゃないと意味がない。  そう言いたかったけれど、言えなかった。むしろ、口から出てきてしまったものは、こんな言葉だった。 「……男も女も関係ない、こう言ったのはプロシュートでしょ」  誤魔化しきることも、全てをさらけ出すこともできなかった。結局私は弱い人間だと、ぼんやり思った。 「なるほどな、おまえもおまえなりに悩んでたっつーわけか」  結局私は言ってしまった。罪悪感のこと、吐き気のこと、泣きたいような気持ちのこと。だけど、さすがに好きな人に会いたいような、寂しいような気持ちのことまで言うことはできなかった。  ここまで言ってしまって良かったのか、逆に全てをさらけ出したほうが良かったのか、それとも何も言わないほうが良かったのか。私にはよくわからなかった。この微妙な気持ちを飲み干してしまいたくて、私は缶コーヒーに口につけた。 「そうだな……確かに、仕事中は男も女も関係ねえ。オレは確かにそう言ったし、その言葉を撤回するつもりもねえ。だが、それはあくまで仕事中の話だ――常にそうあれ、と言ったわけじゃあねえ」  そこで、プロシュートは私の方をまっすぐ見つめた。彼の言っていることが理解できず、私は尋ねた。 「どういうこと?」  私が聞くと、プロシュートはそっと囁いてきた。どこか甘くて低い声色が、私の胸に響いた。 「オレの前では女になれよ、ナマエ」  どういうこと。もう一度聞こうとしたけど、できなかった。  プロシュートが、私の唇を塞いでしまったのだ。何が起こったかすぐに理解できず、私の中での時間が止まる。  静止したような時間の中で、コーヒーの香りだけがふわりと漂っていた。 「どうだ?」  止まっているようにも感じた時間は、プロシュートの言葉でようやく動き出した。何を答えればいいのかわからなかった私は、何も考えずにこう呟いていた。 「苦い」  好きな人に唇を奪われたというのに、最初に出てきた言葉がこんなものなんて。もっと、他に言うべき言葉があるのではないだろうか。もっと、他に感じるべき感情があるのではないだろうか。  だけど、私は混乱していて、何を考えていいのかわからなかったし、何を感じていいのかわからなかった。  混乱している私が何か違うことを言うより先に、プロシュートはもう一度動いた。 「じゃあ、もう一度だな」  プロシュートは顔を近づけて、もう一度唇を重ね合わせてきた。  さっきよりもはっきりした意識の中。そこでやっと感じたのは、戸惑いと、緊張と、火照りと、高鳴る鼓動と、ほろ苦さと、そして―― 「……どうだ?」  唇同士が、やっと離れた。随分長い間重なっていたような気がするけど、どこか名残惜しいような気持ちになる。  精悍な瞳が、私を貫いていた。私はさっきの言葉を思い出して、新しい言葉をひとつ付け加えた。 「苦いけど、甘い」 「オレはチョコレートか?」 「そうかも。でも、あなたはプロシュートよ」 「上手いことを言ったつもりか?」  プロシュートの口角が上がった。彼の笑みが、どうしようもなく甘く感じられた。  今この場で、確かに私はひとりの女だったし、同時に彼はひとりの男だった。  唇を重ねた時に感じたのは、好きな人がすぐ近くにいて触れてくれているということへの、どうしようもない多幸感。  唇が離れた時に感じたのは、好きな人が離れてしまったことへの、どうしようもない名残惜しさ。  だから、私という女は、プロシュートという男にこう言った。 「ねえ、もう一回……」  そして、私の方から唇を押し付けた。私たちは今、お互いがお互いのことを求めていた。  仕事のことも、吐き気のことも、泣きたい気持ちも、何もかも忘れたかった。ただ、この人のことが好きだということと、この人が好きだということと、この人に触れているという幸せのことと、それだけを感じていたかった。  やっと二人が離れた時、私はふと聞いてみた。 「ねえ。もし、嫌って言ったらどうするつもりだったの」 「決まってる。嫌なんて言わせねえ、それだけだ」 「私は人殺しよ?」 「オレだってそうだ」  プロシュートはそこで、残った缶コーヒーに口をつけた。そこで私も、それの存在を思い出す――すっかり忘れていた。慌ててコーヒーを飲み込むと、もうそれはすっかり温くなってしまっていた。 「……ごめんなさい。ごもっとも、ね」 「オレはな、ナマエ」  プロシュートは、両手を私の顔にあてた。彼としっかり目を合わせることになり、思わず胸を高鳴らせてしまう。 「おまえが人殺しだろうと、そうでなかろうと、おまえのことが好きなんだ。わかるか」  どう返事をしていいかわからなくて、私は目をそらしてしまった。プロシュートは両手を離したけれど、代わりにこう言った。 「ナマエ、オレを見ろ」  私がプロシュートに顔を向けると、彼は私の手を取った。そして、言葉を投げかけ始める。 「時には血を浴びて、またある時にはオレに触れるその手も」  そこで、プロシュートは私の手に優しく口づけを落とした。 「時には涙を流し、またある時にはオレを見つめるその瞳も」  その次は、私の右瞼に。 「時には泣き言を吐き、またある時にはオレに口づけするその唇も」  最後は、優しく唇に。 「おまえという女の全てを愛しているんだ」  こつ、と額を合わせながら、プロシュートは囁いた。  ほとんど触れ合いそうな近さの中。彼の瞳を見つめながら、お互いの息遣いと、身体の熱さだけを感じていた。  アジトに戻る途中、私は心に引っかかっていたことを、最後にプロシュートにさらけ出してみた。 「私は結局、どうしたらいいのかしら」  結局、私の悩みが完全に消えた訳ではない。仕事中でなければ泣き言を言っていいとしても――根本的に、人を殺すことに慣れることができたわけではないのだ。 「まだ吐き気があるのか?」  いいえ、と私は呟いた。――プロシュートにキスされた後に、吐き気なんて感じるわけがない。 「じゃあ、まだ泣きたいのか?」 「……少しだけ」 「それなら、オレの腕で泣けばいい」  泣きたい気持ちが完全に消えたわけでもなかったけれど、だからと言って彼の前で泣きたいわけではなかった。私がどうするべきか迷っていると、プロシュートはこう言った。 「あのな、ナマエ」  私がプロシュートに視線を向けると、彼は立ち止まった。必然的に、私も彼の隣で立ち止まる。 「人を殺すことに慣れることができない。それは、暗殺者としては欠点かもしれねえが、おまえの美点でもある」  彼の言葉に、崖から突き落とされたような気分になった。それは、欠点を指摘されたからか、それともそれを美点とされたからか。 「だからオレは、慣れろとも、慣れるなとも言えねえ。だが、そのことは忘れるな」  そこで、彼の顔が一瞬だけ寂しそうに陰った。ただの気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれないけれど、少なくとも私にはそう見えた。 「……おまえには、向いてない仕事かもな。それでも、おまえはこの仕事をしなければいけねえ」  崖から落下していく。プロシュートが、仲間たちが、凄く遠い存在に感ぜられる。  そんなの嫌だった。今の私はただの女にすぎないけれど、この人の隣まではい上がりたかった。 「……それでも、私はこの仕事をする。あなたの隣に立つわ」  プロシュートは、少しだけ虚をつかれたように固まった。だけど、やがて表情を緩め、囁いてきた。 「良く言った、上出来だ。さすがは、オレの女だ」  そこで、もう一度口づけされた。これが今日の、女としての最後のキスなのかなと、ぼんやりと思った。 「戻るか」 「……そうね」  それから私は、暗殺者に戻った。人を殺すことに慣れることができないという、重大な欠点を抱えた暗殺者に。――もう、この欠点を美点として扱うこともできない。暗殺者には、男も女も関係ないのだから。  プロシュートは何事もなかったかのような素振りで、二人分の缶コーヒーを捨てて、歩き出した。 「なあ、ナマエ。これは独り言だ」  私は無言で、彼の顔を見た。プロシュートは、私の方を見ずに呟いた。 「オレはおまえの上司だ。仕事中だって、悩みがあるなら溜め込む必要はねえ。それは、おまえが男だろうと女だろうと同じことだ」  彼の言葉に、すっ、と心が軽くなった気がした。そして、どこか安堵感のようなものに満たされていく。  全てを許されたような、そんな気分になった。どこかで感じていた、引け目のようなものが、少しずつ消えていった。  そんな私に、プロシュートはふと尋ねた。 「そうだ、次の仕事は明日、二人がかりでのものなんだが――ナマエ、来れるか」  今までの私だったら、言い淀んでいただろう。実際、私はいつもそうだった。まして今日は、仕事を終えたばかりなのだ。  だけど、今の私は違う。もう、目を背けたりなんかしない。 「ええ、大丈夫よ」 「よく言った」  プロシュートは笑った。ようやく、この人の隣に立てたような気がした。  私は、暗殺者としては失格かもしれないけれど――それでも、幸せなのだろう。良い上司に恵まれ、その人の隣に立つことができているのだから。私自身のことを、認めてくれる人がいるのだから。  そして同時に、私は女としても幸せなのだろう。女として認めてくれる人が、私の隣にいるのだから。女として愛してくれる人が、私の隣にいるのだから。

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