「き、岸辺露伴……先生、ですよね」 見たことのある姿。だが、決して現実で出会ったことのなかった相手。写真でしか見たことのなかった人物が、私の住む町に訪れているなんて、どうして予想できただろうか。 彼がその漫画家であると気がついた途端――私は、ほぼ無意識的に声をかけていた。 「……そうだが、君は? 見たところ、地元の学生というところか」 立ち止まり、振り返ってこちらを見た男性は、確かに私が大好きな漫画の作者――岸辺露伴だった。 彼の描いた漫画の単行本に載っている著者近影そのままの姿だ――興奮した私は、つい早口になってしまう。 「そ、そうです。そして、その、えっと……ファンです!」 加えて、緊張で声が裏返ってしまった。さらに、私が今からしようしている発言は――突拍子もなく、無遠慮なお願いかもしれない。その事実が、さらに私を緊張させる。 彼くらいの漫画家なら、これくらいのことは日常茶飯事なのかもしれないけど。 「その、突然で不躾なお願いなのですが、サインなどいただけないでしょうか……。今、こんなノートくらいしかないのですが」 「気にすることはないよ。サインくらいスペシャルサンクスさ」 思いの外あっさりと、彼は私の願いを聞き入れる。そして、緊張して震えている私の手に握られていたノートを受け取り、憧れの漫画家はサインを描いてくれた。 しかも、私の大好きなキャラクターのイラスト付きだ。とんでもない速さの筆さばきに、思わず震えてしまう。 「あ、ありがとうございます!」 一生の宝物になりそうだ。心の底から感動に打ち震えながら、私はそのサインを眺めた。 ――このノートは、一生大事にしよう。 そう決めたときの私は、世界で一番幸せそうな顔をしていたのではないだろうか。 「そうだ。ついでなんだが、少し頼まれてくれないかい?」 「は、はい! 私にできることなら喜んで」 取材の一環だろうか――岸辺露伴は私に対して、何気なく言った。 緊張しつつ返事をすると、彼はいたって落ち着いた様子でこう聞いてきた。 「この近くにある遺跡に行きたいんだけど、道が知りたくてね。それと、それについて君がどう思っているかってハナシも、よければ聞いておきたいな。教えてくれないかい?」 憧れの人の役に立てる。しかも、私が漫画の取材の役に立てるなんて! 「はい、お安いご用です!」 私は意気揚々と返事をした。あの遺跡のことなら、地元の人間なら誰でも知っている。あまりメジャーではないところが、逆に彼に気に入られたのかもしれない。 「えっと、あの遺跡は、この道をまっすぐ行って、そして――」 取材相手は地元の人間なら誰でもいいのかもしれないが、それでも私が彼の取材に応えられるということに、誇らしさすら感じていた。 そして、張り切ってそこまで話したところで。 一瞬、記憶が途切れた。 そして、気がついたら。 「そうか……いい話を聞けた。ありがとう」 私は、彼に全てを説明していた。 否、全てを説明した気になっていた。 「あ……」 岸辺露伴は満足そうに頷いている。私はそれを見て、嬉しい気持ちになったけれど――それでも、何か「変だ」という感覚が、少し残った。 何か。何かおかしいと思っているのに。 何故か、何も口に出せない。 「じゃあ、ぼくはこの辺で失礼するよ。これからも応援よろしく」 ――待って。 そう言いたいのに、口に出せない。形容しがたい感覚が、わだかまりとなって胸のうちに引っかかる。 そうして岸辺露伴は私に背を向け、遺跡の方向に歩き出した。追いかけたい気持ちもあるのに、足は一歩も動かなかった。 結局私は、追いかけず、声をかけることすらせず、漫画家の背中を見送った。 その背中に、何か――どこかで見たことのある影が、見えた気がした。 ――何だったんだ? 不思議な感覚。言いようのない違和感。 だけど、とにかく。私が憧れの人と少しの間話をして、好きなキャラクターのイラスト付きのサインを描いてもらって、私の話により彼の取材の役に立った。これらのことは、紛れもない事実なのだ。 今日の出来事は、一生の思い出となって残るだろう。違和感のことを無理やり頭から追い出して、私はサインを抱き寄せた。 岸辺露伴という漫画家が行ったこの町での取材が、いつか彼の漫画に反映する日が来るのだろう――その日のことに思いを馳せながら、私はいつも通り、帰路につく。 心の奥底にひそむ違和感の正体に、気づくことのないまま。
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