――あれから、十年後。 今思えば、とんでもなく夢見がちだった私は。それなりに擦れてそれなりに現実を見るようになり、それなりに大人になった。 五年生くらいになると、肖像画に本気で恋をしていた一年生の頃が恥ずかしい、と『彼』の肖像画に話しかけることは、いつの間にかなくなっていたし。一年ほど、レイブンクローの一つ上の男の子と大恋愛をして、大喧嘩の末に別れたが――その件については割愛。 その人と別れ、しばらく恋愛はこりごりだと泣いた後。気が付いたら七年生になっていた私は、再びレギュラスの肖像画と話をするようになっていた。 その時の感情は、恋とは少し違ったかもしれないけれど。一年生のときに感じていたあたたかい気持ちのことも、彼と交わした会話も、良い思い出として昇華できるようになった。 そして、それは今も。 とはいえ。レギュラス・ブラックの肖像画は、相変わらず高慢ちきだったが。 「ナマエ」 「レギュラス! 来てくれたんだ」 ある日、研究室で授業の準備をしていたときのこと。部屋に置いてある空の肖像画の中に、彼がやってきた。 「たまにはね。教師が特に理由もなく談話室に入ってきたら、学生たちがうるさいだろうし」 「えっ……私、理由もなく談話室に入ってくるように見える?」 「一年生の頃の自分のことをよく思い出してごらんよ」 「うっ……あのときのことは、恥ずかしいからあんまり話題に出さないでほしいなあ……」 苦笑いしながらも、私はレギュラスの肖像画と、相変わらずの会話を交わしていた。 そう。ホグワーツ卒業後の私は―― マグル学の教師として、ホグワーツに住み込みで働いている。 スリザリン出身のマグル生まれの魔女が、ホグワーツでマグル学を教える教師になる。それは、ホグワーツの歴史上初めてであるそうだ。 誰にも成し得なかったことを成した、という。ある意味偉大なことをしたというのは、やはりスリザリン生ならではなのかもしれない、と。私は密かに、この功績を誇りに思っている。これが、功績ではなく当たり前の選択肢になる日が来てほしいなと、そうも思っている。 少なくとも、ヴォルデモート台頭時代ではできなかったことだろう。あの時代は、過激な純血主義も、寮同士の(特にスリザリンと他三寮の)対立も、最悪と言って差し支えなかったようだ。ヴォルデモートが滅び、スリザリンの汚名が少しずつ晴らされたからこそ。私は今、こうしてこの場に立っている。 ……そして。数十年前のスリザリンの汚名を晴らすことに貢献したうちの一人が、このレギュラス・ブラックなのだ。 私の目の前にいる彼は、『僕は彼の虚像に過ぎないから僕自身の功績ではない』と、そう言うのかもしれないけど。 そしてこのレギュラスは、私の寝泊まりしているマグル学研究室の肖像画の中に、たまに遊びに来てくれる。空の肖像画の額縁は、そのために冗談半分で用意したのだが、まさか、本当に来てくれるようになるとは思っていなかった。 「ナマエが五年生くらいの時は、静かで良かったものだけどね。君との縁が卒業してからも続くなんて、あの時は考えてもみなかった」 「確かに。あの時の私は、卒業したらレギュラスとは二度と会わないものじゃないかって思っていたかも」 だけど。今も私たちは、こうして額縁越しに話している。相変わらずのレギュラスとの会話に、くすりと笑うが―― ふと。私は、こんな風に思ってしまうのだ。 「レギュラスは……いつまでも、十六歳なんだね」 「……当たり前だろう」 少しの沈黙のあと、レギュラスは、それだけ言った。 私は成長し、二十一歳となって、教師となった。 だけど、レギュラスは……いつまでも、ホグワーツの制服を着た姿のまま。 出会った当初は五歳歳上だったレギュラス・ブラックの肖像画は、いつの間にか五歳歳下の男の子となってしまった。 「死んだ歳は十八歳だけどね。闇の帝王に仕えていた時代の『僕』を、ホグワーツに飾るわけにはいかなかったらしい」 だからこの僕の腕には闇の印は刻まれていない――描かれていないよ、と。レギュラスは苦笑した。 その言葉に、私は息を吐く。 本物の『レギュラス・ブラック』の少年期をイメージした、肖像画のレギュラスは永遠に変わらない。成長もしない。変化もない。そこに――私との違いを、どうしても感じる。 この肖像画のレギュラスが、虚像だということ。それはずっと昔から、分かっていたことだけど。 「レギュラスは、変わらないね。私は、何回も考え方を変えてきたのに」 レギュラスは変わらない。変わったのは、私の方だ。 彼に出会い、恋をして、避けて、そしてまた話すようになった。学生だった私は、卒業して、教師になってホグワーツに戻ってきた。 だけど、彼は。いつまでも、ホグワーツの学生のまま。 「それが成長というものだろう。変わっていくこと、それが生きている者の特権だ。肖像画には、そんなものないからね」 レギュラスは目を伏せる。 目の前の彼は、『レギュラス・ブラック』の人生の中から、一部分を切り取ったイメージだ。ヴォルデモートに仕える前の、ヴォルデモートを裏切って死んだ、『彼』のイメージ。 永遠に変わることのない、虚像の絵。 「十五歳くらいの私は……自分が変わっていくことが怖かった。そして、変わらないあなたのことが羨ましかったな」 今思えば。一年生の頃の私は幼かったし、五年生の頃の私は思春期真っ盛りで、人の目を気にしすぎていた。 「周りの目を気にして、あなたに恋をしていた自分を恥じて、だけどそうやって恥じる自分のことも嫌いだった」 レギュラスが好きな気持ちを、恥じる必要なんてなかったのに。好きなら好きなまま、貫けばよかった。 結局私は別の人のことを好きになって、そして、やがて別れたのだけど。 「ねえ、レギュラス。……勝手な真似をして、あの時はごめんね」 勝手に避けてごめん。都合よく勝手に戻ってきて、ごめん。 そう言ってみても、やっぱりレギュラスは、つれない。 「僕は、肖像画だから。君にどう思われようとどうでもいいし、謝罪されようと何も感じない」 「……そうだよね」 分かっている。肖像画の彼が、私の気持ちに応えることはないということ。私の恋心に応えてくれる日は、永遠に来ないということ。 だから私は、こうしてレギュラスと普通に話すことはできても、彼に再び恋をすることはできないのだ。 あの頃みたいな、純粋で夢見がちな恋は。大人になった私には、できない。 「それに――」 少しだけ、沈黙が落ちた後。レギュラスは口を開く。 「僕が、君のことを何とも思っていなかったとしても。ナマエは今でも、僕が好きなんだろう?」 そして、仕返し、と言わんばかりに。レギュラスは、不敵に笑った。 何を言われたか一瞬理解できず、私は目を瞬かせる。 「い、いや! 私だってもう大人だし!」 そして、彼の言葉を理解した瞬間、慌てて首を振った。顔が熱くなるのを感じるけど――それは、突拍子もないことを言われたから動揺しただけだ、きっと。 そりゃあ、レギュラスと今もこうして話ができるのは嬉しいと思っているし、楽しい。 ……だけど。 「もう、あなたに恋をすることは……ないよ。そんな不毛な想いを抱くつもりは、ない」 彼は絶対に応えてくれない。その事実を知りながら肖像画のレギュラスに、再び恋をする勇気は……私には、ない。 「――どうして?」 それなのに、レギュラスは心底不思議そうに首を傾げる。それが何故だか、楽しんでいるように見えた。 「僕が虚像であるということを知りながら恋をしたと言ったのは、ナマエ、君じゃないか」 「そ、そうだけど」 十年前の話だ。その頃の私はとんでもなく夢見がちだったと思うし、恥ずかしく思ったこともあった。 だけど。それを後悔したことは、一度もない。……それも、確かな事実だった。 「でも、レギュラスって五歳歳下だし。教え子達と同じくらいの子は、恋愛対象外というか」 しどろもどろになりながらもなんとか口にする。だけどレギュラスは、間髪入れずにこう言った。 「そうかな。出会った頃の僕は、ナマエより五歳も歳上だったけど?」 「ううーん……」 顔を赤くしながら、私は首をひねる。そもそも何故、レギュラスは今、こんな話をしているのだろう? 「ナマエ、ひとつ教えてあげようか」 レギュラスは静かに口を開いた。その口ぶりに、私は顔を上げる。 「……何?」 「肖像画は変わらない。成長もしない。だけど、人間との交流を記憶し続けることはできる」 それは、確かにその通りだ。 レギュラスとの思い出話を、彼が忘れたことは、一度もない。 「僕は君との十年間を覚えているよ。肖像画に込められた魔法の技術も、一昔前よりも随分発展している」 「えっと、それが?」 レギュラスは一体、何を言いたいのだろう。 そう思っていた私に彼は、こんな爆弾発言を放った。 「虚像の僕が、今目の前にいるナマエのことを好きになることも。あり得るかもしれない、ってこと」 「……あんまり大人をからかわないで。レギュラスが私のこと、好きになるはずない」 そう言って私は目を逸らす。 やっと分かった。レギュラスはただ、私のことをからかっているんだ。 全て見せかけ。まやかし。肖像画が喋るのはあくまで魔法であり、彼が本当にそう思考しているわけではない。 『あなたが虚像でもいい。私は今、目の前にいるレギュラスのことを、好きになったから』 十年前の私の言葉を。意趣返しと言わんばかりに返してきただけなのだ、この肖像画は。 「そうかな?」 レギュラスは肩をすくめた。 「君との思い出がある。話してきた記憶がある。それは既に、『変化』の一つじゃないか?」 「それは……」 どうなのだろう。確かに、『本物のレギュラス・ブラック』は、当然ながら私と話したこともないし、私のことを知らないまま死んだ。『彼』は、私が生まれる前に死んだ人なのだから。 そこに、差があると言いたいのだろうか。肖像画のレギュラスと『本物のレギュラス』の差、それこそが『肖像画が変化すること』だと言いたいのだろうか。 変化することによって、肖像画がいつか恋をするかもしれないという、そんな戯言を言いたいのだろうか―― 「十年前は確かに、肖像画に本気で恋をするなんて、愚かな奴だなって思ってたよ、君のこと。だけど、今は……それが変わることもあるかもしれない、と思っている」 それが本気で言っているようにしか見えなくて、どうすればいいか分からなくなってくる。 レギュラスのその言葉も、魔法でそれらしいことを言っているだけ。肖像画は思考しない、何も感じない。そのはずなのに。 本当に、そう思っていてくれているんじゃないか、って。そう信じたくなる。 だけど、私は。静かに首を振った。 「でも私は、もう大人だから。もう、あなたに恋はしない。……しないの」 私は怖いのかもしれない。再びレギュラスに恋をすることが。 肖像画と、恋をすることが。 その先に何があるのか、私には分からないから。 「……前から言おうと思っていたけど、ナマエはそんなに大人びて見えないよ。まだまだ子供だ。初めて会った頃とそう変わらない」 「永遠の十六歳に言われたくはない!」 何を言い出すのだこの人は。私、もう二十一歳なんだけど。 そう思って彼を睨むと、レギュラスは、平然とこんなことを言い始めた。 「だから、ナマエ。大人だからって自分の気持ちを無理に抑えつけなくても、いいんじゃない?」 その言葉に虚を突かれる。 どうして彼はこんなにも、……私を抉るようなことを言うのだろう。 「レギュラス」 「何?」 「今日は、帰って。授業の準備したいから」 「それもそうだね。君のプライベートなことで、学生の勉学に支障を出すわけにはいかないしね」 「レギュラスが変なこと言うからでしょ!」 ほら、こうやって別れを切り出しても、彼は平然としてる。 レギュラスは変わらない。私を好きになることなんて、ない。 「ナマエ、また来るよ。近いうちにね」 ……それは、分かっているのに。こんな言葉に舞い上がってしまいそうになる私は、……実は、一年生のときから何も変わっていないのかもしれない。 もう、どうしてこうなってしまったんだろう。私はレギュラスと、友人としてたまに話すことができれば、それで良かったのに。 その先を、望みたくなってしまう。そんなこと、起こり得るはずもないのに。 ため息をついて、机に向き直る。仕事はちゃんとしないと。そう思いながらも。 ……私、また、レギュラスのことを好きになってしまうのだろうか。そんなことを悶々と考えていた、十年後のある日だった。
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